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空港の出発ロビーのような場所の中に佇む久里浜の傍に向け、僕はゆっくり歩みを進める。
窓の外は真っ暗で何も見えず、天井から降り注ぐ灯りは脳天気に明るくて、そしてソファーに腰掛ける久里浜は陰鬱なオーラを纏っているようだった。
背後から声を掛けようかと思ったけれども、それだと不要に驚かせてしまうかもしれないと考え直した僕は、彼の斜め前のほうへと回り込んで、敢えて足音を立てながら彼のほうへと歩み寄る。
床は乳白色のリノリウム敷きだったから、足音を立てようとしても然程響く訳でもなく、「ペタペタ…」という間の抜けた音が微かに聞こえる程度だった。
そんな音であっても、静まりかえった空間の中では相応に響いてしまうらしく、あと十歩ほどの距離まで近寄ったところで、久里浜はその顔を上げて近寄りつつある僕を見遣る。
それまで久里浜は項垂れ気味で、何をしているのかは近寄るまで分からなかったけれども、顔を上げたその時、薄めの文庫本を持っていることに気が付かされた。
僕は右手を軽く挙げ、「よぅ、久しぶり!」と声を掛けつつ久里浜の方へと歩み寄る。
「あぁ、お前かぁ……」と、久里浜は溜息を交えた、気の抜けたような調子にて言葉を返す。
「『お前』だなんて失礼じゃないですか?!」と、僕は戯けた調子にて言葉を返す。
そして、彼の斜め前まで歩み寄ってから、こう問い掛ける。
「でさ、何してんの?」と。
久里浜は深々と「はぁ…」と溜息を吐く。
もう何百回と無く聞かされ続けて来た恒例の溜息だ。
諦念や自己嫌悪をじっとりと湛えたようないつもの溜息だ。
溜息を吐き出した久里浜は、「いや、ね。これ読んでたら、もう死にたくなってしまってさ」と、本を掲げつつそう答える。
そして、その書名を告げる。昭和初期の文豪による作品で、主人公の自堕落な生き様と、その内心の救いの無さとが何とも言えぬ吸引力を醸し出している名著だった。
「いやいや、何言ってるんですか久里浜さん!
久里浜さんって、そんな主人公とは全然違うじゃないですか~!」
と、僕は敢えて軽薄な調子にて語り掛けてみる。
久里浜はまたしても「はぁ…」と溜息を吐いてから、その眉を顰める。
「いや…。俺だって何とか人並みに生きようとはしてるし、世の中に迷惑を掛けないようにしようと心掛けてはいるよ。
でもさ、この本を読んでると、俺の心根って、この主人公と大して変わらないなって思えちゃってさ…」
ここまで一息に話してから、久里浜は再び項垂れ溜息を吐く。
言葉の通り、久里浜は確かに世の中に迷惑を掛けてなどはいない。
与えられた役割は確実にこなそうとする訳だし、他者に迷惑を掛けることなんて殆ど無いのだろう。
むしろ他人をフォローする立場なのだろうし、職場ではきっと上司や同僚などから信頼を勝ち得てもいるのだろう。
真面目な性格に努力を積み重ねることを厭わない姿勢、そして自己評価の低さ故の向上心は、社会人として生きていく上ではプラスに働いているに違いない、
一方、彼は自分から積極的に他者との関係性を開拓していこうという姿勢が実に乏しい。
それは同性の関係だけでなく、異性との関係でもそうなのだ。
自分と関わることで相手を傷付けたりしてしまうことを極端に怖れてしまっている。
それは、彼の不相応とも言える自己評価の低さに依るものなのだろう。
勿体無いと思うことはしょっちゅうだけれども、でもそんな彼の自意識が揺らぐことは大学の四年間を通じて見られなかったし、卒業して今に至るまでだって変わらなかった。
だから、僕は『付かず離れず』といった立ち位置から彼を見守る他無いのだ。
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