1.彷徨

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歩き回っている最中に人影を見掛けることもあった。 つい先程に見掛けた白髪交じりの豊かな髪の毛をした男性は、その年齢は五十代半ばくらいだろうし、おそらくは外国人なのだろう。 瞳は薄青を帯び、灰色のスラックスを履き、やや色褪せた濃緑のトレーナーを纏ったその男性は、書架に身体を凭れかけさせて雑誌へと見入っていた。 時折、思い出したかのようにして雑誌の頁をパラリとめくっていた。 彼の瞳には薄らとした透明の幕が被さっているようであって、そこから精気などはまるで感じられなくて、その表情から感情の揺らぎなどを見出すことは出来なかった。 彼は僕に気付く素振りなど見せず、僕にしてみても彼に興味を抱くことなどまるで無かったので、会話を交すことや視線を交すことも無いままに彼の傍から歩み去った。 彼の他にも幾人かの男性を間近で見掛けることはあった。 視界の端を行き過ぎる人の姿も時々はあった。 けれども、彼等の様はまるで書架の一部のようにも感じられてしまった。 そこに確かに姿は在って、一通り動いてはいて、そして何かを為してはいるけれども、彼等の姿に好奇心を抱かされることなど全く無かったし、それに加えて彼等が纏う現実感は実に希薄だった。 人の姿をした精巧な造り物がそこに在って、瞬きをしてみたり僅かに身動きをしてみたりしている、そんな印象を受けてしまった。 あるいは、精巧な立体映像なのかも知れないとも思った。 書架の脇を通り過ぎるのと同じくらいの無関心な態度で以て、僕は彼等の傍を行き過ぎて行った。 どれくらいの距離を歩き、どれくらいの時間を費やしたのか判らないけれども、僕は何時しか別の部屋へと続く出口の前へと辿り着いていた。 その出口に扉は無く、自在に出入りが出来るようだった。 茶色に塗られた木の枠はつやつやと照り映えていて、薄灰にくすんだ図書館のような部屋の趣きとは随分と異なる印象を放っていた。 出口から見える別の部屋の様は、僕が歩き回っていた部屋とは違って豪華な設えのようだった。 眩さを感じさせる白い光が部屋の中を照らしているようであり、部屋のあちこちに金色の設えでもあるのか、華やかさや重厚さを帯びた輝きが出口から漏れ出していた。 唐突に、その出口から何かが飛び出してきた。 それは、コピー用紙をそのまま折ったような紙飛行機だった。 白い紙を折り畳んで作られたシンプルな紙飛行機は、僕の居る部屋にスイッと飛び込んで来て、勢いそのままにフワリと飛んでから、緩やかに床へと降り立った。 右の翼を床に着けた傾いた姿で降り立った紙飛行機をぼんやりと見遣る僕の耳に、驚きを湛えた歓声が飛び込んで来た。 「なるほど、そっちの部屋でも重力は一緒なんだ!」 そうか、部屋ごとに重力が違うという視点もあるのか、と僕は思わず感心する。 その声は、仕事の上で時々やり取りをする工場の主任のもののように思えた。 その主任は、他の技術者とは異なる視点で物事を見ることが出来る点が高く評価されている。 彼ならそういった発想を抱きもするだろうし、手軽に試してみたりもするよなと至極納得させられた。 でも、その声の主が主任だったとしたら、顔を合わせたくないなと何となく思ってしまった僕は、出口に背を向け、来た方向へと逃げるように引き返して行った。 早足で歩み去りつつある中、僕はふと振り向いてみる。 つい先程まで在った筈の出口は幻のように消え失せていて、薄灰の無表情な壁だけが其処にはあった。 床の上に在ったはずの紙飛行機は、もう何処にも見当たらなかった。 僕は小さく溜息を漏らしてから、その場を後にする。 低い音が響き来る。 人の唸り声のようにも思えるその音は、遙か遠くから響き来るようにも、はたまた部屋の至るところに在る黒い箱が為すもののようにも思えてしまった。
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