2.海の底

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2.海の底

彼女と別れたその理由は果たして何だったのか、断言することが出来ぬままでいる。 そもそも付き合い始めた時だって実際には大した熱量など抱いてなかったような気がするし、彼女そのものへの特段の興味にしたところで然程に大きいものでは無かったように思えてしまう。 知り合った頃や口説いていた頃、そして付き合い始めた頃。 その時は彼女と馬が合うんだろうなと信じていたし、それに加えて趣味だって親和性があるように感じていた。 外資系のIT企業に勤めている彼女は科学関連の知識にも興味を抱いていたので、理系の学部を出てメーカーに勤務し、仕事の上でも工学系の知識が必要な僕とは何かと話題が合ったものだった。 彼女のその見た目にしても、とても魅力的だと思っていた。 後ろ髪がやや長めな黒髪のショートボブからは活発な印象を受けていたし、やや頬の細い色白の顔は愛護欲をかき立てるものだった。 艶やかな長い睫毛に縁取られた切れ長の目や、その中に在る焦茶の瞳からは、何とも言えぬ複雑な人間性が垣間見えるように感じられた。 スリムな体型は物足りなく感じられない訳では無かったけれども、それはむしろ可愛らしいものと思えてしまった。 思いが通じて交際へと至り、その末に愛を交わし会うことが出来たのなら、この上無く幸せな気持ちになれるんだろうなと夢想した歳月は数ヶ月にも及んだ。 二十代も後半で、恋愛沙汰などしばらくご無沙汰だったその当時の僕は、心の何処かに焦りを抱いていたのかもしれなかった。 それに加え、まるで借り物のような熱情にも侵されていたんだろう。 他人に対し何かを求める訳でも無く、何かを期待することに諦めすら抱いていて、人間関係は外から眺めるものだとの思い込みつつあった僕。 熱狂へと身を浸すことに対して何処とない疎ましさを覚えていた僕。 そんな僕が恋愛の熱に魘されて右往左往させられてしまうという、以前の僕からしたら観察されるべき行為に手を染めることについては幾許かの抵抗もあった。 けれども、その時の僕は我を忘れたかのようにして熱情に振り回され、彼女を幾度と無くデートへと誘った。 人目を憚ることも無いままに口籠もりつつ口説いてみたりもした。 その甲斐あってか、何とか交際へと漕ぎ着けることが出来た。 幸せだった。 この上も無く幸せだった。 けれども、喜びや熱狂、そして幸福などは付き合い始めた頃がピークだったように思う。 最初に抱いていた熱がそれより高まり行くことは無かったし、それを補う、あるいは上回るような何かが僕たちの間に芽吹くことも無かったんだと思う。 いや、それは酷く一方的な見方なんだろう。 彼女はお互いの間にて萌芽しつつある何物かに価値を見出していたようだった。 極めて緩やかでありながらも、その何物かが育ち行くことに対して期待を抱いていたようだった。 そもそもだけど、他者に対してあまり期待を抱くことなど無くて、人間関係に対して何処か醒めた感覚を抱いている彼女にとって、淡々とした人間関係を好む僕との係わりは居心地が悪いものでは無かったのだろう。 最初の熱狂はイレギュラーなものであって、男女としての関係性を構築するための通過儀礼だと割り切るころが出来たのならば、僕は彼女と折り合えていたのかもしれない。 そのまま交際を続けて良かったのだろうし、その果てに新たな繋がりを築く未来だってあり得たのかもしれない。 けれども僕は、熱狂を失った自分の態度を『変節』だと思ってしまっていた。 それは僕が元々抱いている、僕自身の性分に対する一種の引け目故だったのかもしれない。
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