2.海の底

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こんなことを彼女に囁いてみたことがある。 「僕ってさ……。 出逢った頃からすると、かなり冷たくなってしまったよね?」と。 微睡みの狭間から零れ出たようなその言葉は、僕にしてはきっと最大限な感情の吐露だったんだと思う。 夢現な心境だったからこそ口に出来た言葉だったのかもしれない。 それは一種の懺悔だったのかもしれないし、やんわりとした糾弾を求めていたのかもしれない。 僕が仄かに抱いている罪悪感や後ろめたさを宥めるためには、彼女からの責めの言葉が必要だったように思う。 けれども、彼女はそれを為さなかった。 僕と同じく微睡みの中にあったであろう彼女は、「ふぅ……」と小さく溜息を吐く。 一呼吸ほどの沈黙を経た後に、途切れ気味に言葉を返す。 気怠げで、そして物憂げな調子にて。 「別に…、いいよ。 君には別に熱なんて求めてないし。 それでいいよ…」と。 そんなものかと僕は頷く。 やや期待外れの言葉であったけれども、それには安堵の念もまた抱かさせられるものだった。 枕元には微かな青い光が灯っていて、夜半の世界はしんとしていた。 僕たちはまるで深い海の底にて死に絶えているみたいだと思った。 ごく僅かな音や光、最低限の熱や言葉しか無いこの世界の中に棲み続けたいなと思った。 浸み出るような幸福感に後押しされるようにして彼女の後頭部へと掌を伸ばした僕は、ゆっくりとその髪を撫で下ろしてみる。 付き合い始めた頃からすると幾分か長さを増した後ろ髪は絹糸のように滑らかで、思いのほかひんやりとしていて、つい先程まで二人の間には熱や潤いが在ったことがまるで噓のように感じられた。 もし水面を撫でることが出来たのならば、こんな感触なのかなもしれないと思った。 控えめな僕の愛撫に気を良くしたのか、ぐいとその身体を寄せてきた彼女は囁くようしてこう告げた。 「人と人との間に『熱』が必要かと言うと、必ずしもそうじゃないと思う…。 だってさ、『熱』ってノイズの原因みたいなものじゃん」 コンピュータ関係の職に就いている彼女は、僕より随分とその方面の知識には詳しい。 この話にしても、おそらくはパソコンの冷却に擬えたものなんだろう。 僕は頷く。 彼女は独り呟くようにして言葉を続ける。 「無駄に暖かい訳でもなく、かと言って冷めてる訳でもない繋がりを続けられることって素敵だと思うの。 むしろ私はちょっと冷たいほうが好き。 お互いの間にちょっとした距離があって、それぞれの熱は放っておくと失われてしまう。 でも、それだと寂しくなっちゃうし不安だって湧き出てくるから、そんな時には身を寄せ合って、それなりの熱があることをお互いに確認して、それから熱を補い合うの。 少し寂しくて、ちょっと冷たくて、ほんのりと不安になるくらいの距離が私には丁度いいの」 そう告げた彼女は、身体を心持ち僕へと寄せてくる。 そうすることを促されているのかと思った僕は、腕を彼女の背へと廻し、その身体を抱き寄せようとする。 けれども、彼女はその身体を(よじ)らせて、抱き寄せようとする僕の手から逃れ出てしまった。 かと言っても僕の傍からきっぱり離れるといった訳でも無く、その背を僕の方へと向け、再び手を伸ばしたら抱き寄せられそうな場所にその身体を横たえていた。 それは恐らく、彼女が口にした『ほんのりと不安になる』くらいの距離なのだろう。 体温を直接に感じられる訳ではなくて、何かの拍子に不安を覚えたり、あるいは寂しくなってしまっても、すぐに互いの体温を確かめることが出来るくらいの微妙で絶妙な距離。 面倒臭いものだなと思いつつも、仄かな冷ややかさを栞のように互いの間へと滑り込ませようとする彼女の距離感は、決して疎ましいものでは無かった。 ぼんやりと考えを巡らせる僕の耳に、小さな寝息が響き入って来る。 彼女の背中を仄かな青い光が照らしていた。 白くて滑らかなその背中は、海の底にて幾世紀もの歳月を孤独に佇んでいる大理石の遺跡のように思えてしまった。 小さく溜息を吐いた僕は、ゆるゆると目を閉じる。 傍らから響き来る仄かな寝息は、何時の日にか耳にした潮騒のように感じられた。 寄せては返すかのような寝息の音は、僕が抱く心地良い微睡みをゆるりと深めていくようだった。
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