3.温度感

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ある時、久我山(くがやま)を見掛けた。 久我山とは同期入社の間柄だけれども、彼のことは何ともふざけた男だと思っている。 所属している部署が違うので細かなことは判らないけれども、仕事の能力は非常に高いらしく、属している物流部門では随分と重宝されているらしい。 痩せ気味の体型ながら、その身体にはしっかりと筋肉も付いている。 いわゆる『細マッチョ』といったところだろう。 何でも高校から大学にかけてはフェンシング部に属していたとのことだ。 更に面白くもないことに、彼の顔立ちは整っているとしか言いようが無くて、それに加えて『女あしらい』にだって長けているのだ。 数年前には同期の結婚式へと一緒に出席し、その流れで揃って二次会にも顔を出した訳だけど、久我山はそこで如才無き『女あしらい』ぶりを発揮していて新婦側の参加者達と随分と盛り上がっていた。 特に、相手側の幹事役といった立ち位置である派手目の女性とは意気投合した雰囲気であって、二次会の終わり頃にはメッセージを交換し合ったり一緒に写真を撮ったりもしていたのだ。 その一方で、内心には捉えどころの無いコンプレックスを抱えているのだから訳が分からない。 そんな彼の愛読書は、どうやら根暗な雰囲気のものが多いようだ。 自殺する間際、人は一体何を思い浮かべるのだろうかなどといった実にネガティブでロクでも無い話を真顔で持ち掛けて来たこともあった。 実生活で悩みでもあるのかと思った僕は慌てて話を聞いてみたけれども、その当時に耽溺していた作家について色々と考えた挙句の話であって、安堵しつつも腹立たしい思いも抱かされたものだった。 容姿に恵まれ才覚もあり、それに加えて『女あしらい』に長けているにも関わらず、その根には実にネガティブな心情も抱えている訳だから、久我山のことは『ふざけている』としか形容しようが無いのだ。 そんな久我山を見掛けたのは、ホテルのロビーを思わせる、やや薄暗くて落ち着いた趣きの部屋の中だった。 彼は如何にもふかふかとした黒布張りのソファーに身を沈め、先の尖った艶々とした茶色の革靴を履き、これ見よがしに足を組んでいた。 身に纏っているのは糊の効いた白いシャツと薄灰のスラックスであって、垢抜けた雰囲気を放っていた。 その顔に何時になく深刻めいた表情を浮かべた彼は、薄めの単行本を読み耽っていた。 単行本には何処かの書店のものと思しき茶色のカバーが掛けられていたから、そのタイトルは分からなかった。 久我山が僕に気付いた風は無かった。 話し掛けるのは何だか面倒臭かったし、垢抜けた風体には何となくだけど腹が立ってしまったし、ネガティブな話をされても対応に困ってしまうから、気付かない風を装い、無視して行き過ぎてみようかという考えが脳裏を過ぎったけれども、流石にそれは気が引けてしまった。 やや迷った挙句、久我山に声を掛けてみようと心に決める。 斜め後ろから彼の傍へと、そろりそろりと歩み寄る。 幸いなことに、部屋の中に敷き詰められているのは灰色をした毛足も長い絨毯だったので、忍び寄る足音は全く立たなかった。 久我山の間近までひっそりと歩み寄ることに成功した僕は、彼の耳元に口を寄せてから「よう、ご機嫌だな」と、囁くように話し掛ける。 久我山は跳び上がるかのようにして、その上半身をソファーから起こす。 彼のその顔には大袈裟なまでの驚きの色が浮かんでいた。 けれども、話し掛けたのが僕だと理解すると、浮かんだ驚きの表情は、すぐさまにニヒルな微笑みへと置き換わって行く。 「一体誰なのかと思えばお前かよ。 うるせえなぁ、邪魔すんなよ」と、邪険ながらもその奥に笑いを湛えた声にて久我山は言葉を返す。 低いながらも良く通るその声音は、普段の彼のものだった。 「でさ、何をお読みなんだよ?」と、彼の抗議などに構うこと無いままに問いを投げ掛ける僕。 久我山は右手で文庫本を振りながら、その著者名を口にする。 あぁ、成程ねぇと僕は納得する。 「何時ものことだけどさ、ホントに好きだねぇ……」と、揶揄うような調子にて言葉を投げ掛ける。 「お前だってそうじゃねぇか?」と、眉を顰めながら憤然たる調子にて言葉を返す久我山。 その憤然さは全く以って芝居じみたものであったけれども。
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