ただいま

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『ただいま大変混雑しております。順番にお呼びいたしますので、ベンチにおかけになってお待ちください』  役所のロビーに流れたアナウンスに、多くの人がため息をついた。  自分は転出届を出しに来ただけなのに、この混雑ぶりは予想外だった。 「ベンチに座れって言ったって、空いてないじゃないか」  不満をそんな風に口に出しても、座っている人が譲ってくれるはずも無い。  僕は大人しく壁際で、ベンチが空くのを待つことにした。  どれだけ待ったろうか。小一時間は経っていると思う。間の悪いことに、トイレに行きたくなってきた。  同じような人が他にもいたらしい。ウロウロする係員をつかまえて、話しているのが聞こえた。 「まだ呼ばれませんか?」 「順番にお呼びしますので」  アナウンスと同じことしか言わない係員は、きっと呼んだ時にいなければ容赦なく順番を飛ばしてしまうだろう。  もう少しの辛抱だ、と僕は心の中で自分に言い聞かせた。  ロビーを埋める人が少しずつ減ってきた。無事に処理の終わった人達がいなくなり、僕もそろそろベンチに座れそうである。  あの人だ。僕と同年代くらいのあの人は、ベンチに座ってから随分経っているはずだ。  そう思って見ていると、案の定その席が空いた。  座ってしまえば、多少待たされても楽になる。一目散に空いた席に向かい座ろうとした時、横からじいさんが滑り込んで席を取ってしまった。 「まったく、最近の若いもんは。年寄りに譲らんか」  こっちだってずっと待ってたのに。不満は盛大に顔に出ていただろうに、じいさんは全く気にした様子がない。  仕方ないから渋々譲るが、じいさんを見ているうちに何かが引っかかった。  あれ、このじいさんどっかで?  どこで会ったのか思い出せないが、見覚えがある気がした。  考え込んでいると、後ろからちょいちょいと上着を引かれた。 「ねぇ、おじちゃん」 「ん? なんだい?」  声をかけてきたのは見知らぬ子供だった。  おじちゃんって……うーん、そんなに老けて見えるだろうか。  軽くショックを受けたけれど、この子と同じ年頃の娘がいるのだし、おじちゃんか、と思い直す。 「あっちで女の子が探してたのは、もしかしておじちゃんじゃないかな?」 「え? もしかして娘が?」 「うん、あなたを呼んで泣いていたよ」  どうしたことだろう。ここには自分一人で来たはずなのに。  ふと考えている隙に、さっきのじいさんが立って空いた席に、男の子が座ってしまった。  また座れなかった。ついていない。  それにしても、娘が泣いているなら放っておく訳にはいかない。  妻は一緒なのだろうか。  もう少しで座れそうだったベンチは名残惜しいが、外に出ることにする。  待ちきれなくなったのか、自分と同じように外に向かう人がちらほらといた。  この混雑では仕方のないことだろう。  日を改めるとするか。  開いた自動ドアをくぐり抜けると、思ったよりも外が明るくて、目が眩んだ。 「パパ!」  次に目を開けると、視界の端に泣き腫らした娘と妻がいた。  見知らぬベットの上で、たくさんのチューブと機械に繋がれて、身動ぎひとつできない自分。  フラッシュバックしたのは、ビルに突っ込んできたトラックと、鳴り響く非常ベル、助けを求める人の声。  ああ、自分は……助かったのか。 「…………ただいま」  かすれて声はほとんど出なかったけれど、妻と娘は大号泣でおかえり、と言ってくれた。
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