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「親愛なるアデル。すでに君の耳にもとどいていることだろう。長い間われわれを抑圧してきた軍事政権は倒れ、アルカディアは民主政府を樹立した。しかし、現状は酷いものだ」
そこには故郷アルカディアの、想像を絶する現状と、それでも未来へ向かおうとする力強い決意が記されている。そして、手紙の最後には、こう綴られていた。
「アデル、君の奏でる音楽は、人々の心を癒し、希望を与える力を持っている。どうか帰ってきてほしい。アルカディアは君を必要としている」
アデルは手紙を折りたたんだ。
「どうするの」
ソフィアの言葉に、アデルは顔を歪める。一〇年前の記憶、あの時の決断が心を苛む。
軍事クーデターが勃発し、アルカディアが戦火に包まれたあの日。街は燃え盛る炎と黒煙に覆われた。軍靴と銃声がまき散らす圧倒的な暴力と恐怖の中、アデルは逃げ惑う人々の叫び声に耳を塞ぎ、愛するピアノと祖国を残して、ひとりヴァイセリアへ逃れた。
「私には、帰る資格なんてない」
絞り出すようなアデルの声に、ソフィアは静かに首を振った。
「アデル、あなたは、まだあの日の罪悪感から逃れられていないのね」
アデルの心には、今ももう一人の自分がいて、同胞を置き去りに国境を越えていく自分の後ろ姿をじっと見つめている。
「あなたは、ただ音楽を愛し、自分の夢を追いかけただけ。誰かを傷つけたわけでも、裏切ったわけでもないのよ」
「それでも、私は……」
アデルの声は、自責の念で震えている。
「私は、一〇年もアルカディアの人たちの苦しみから目を背けてきたのよ。私は一人だけ、ヴァイセリアで安全に、自由に生きてきた」
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