十八歳

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 週が明けた月曜日の朝、教室に入ると、クラス内はどことなく平穏な空気に包まれていた。皆が心から安心しているように、好き好きにお喋りをしたり手を叩いて笑ったりしている。黒板も机も椅子も、カーテンまでも、ご機嫌にそこにいるように見えた。いつも糸瀬が大きな音を立てて教室の扉を蹴り飛ばして入ってくるその時間、その不快な音もぴりつく空気も、一向に訪れないからだろう。  事件やニュースの類を口にしている者は見られない。  この様子からして、金曜日にすでに糸瀬が死んでいるということは、まだ明るみに出ていないようだ。  私はぎゅっと通学鞄の持ち手を握って、窓側から三列目の一番後ろ、自席へ向かった。 「おはよ、友香」  彩美が、私の前の席に腰掛けて、いつも通りのくるりと丸い笑顔を向けてくれる。 「おはよう」  いつも通りの、軽快な対応ができただろうか。平常心を保つことに集中する。 「『耳をすませば』観た? 金曜ロードショー」  彩美のくるりとした目は、純粋な輝きを放っている。大丈夫だ、何も起こっていない。  「観た観たー」と、通路を挟んだ隣にいる何人かも自然と会話に入る。大丈夫だ、日常が流れている。 「え、やってたんだ? 観なかったなあ」  言いながら、鞄の中から教科書を出して机にしまい、横のフックに鞄をかける。正直、金曜日はあれから何も手につかず、部屋に籠ってずっとベッドの上でぼうっとしていたのだ。 「瀬尾君と電話でもしてた?」  彩美はひそひそ声でにやりと笑う。自分には当分ないという恋バナで盛り上がりたいのと、糸瀬によって制限されてしまったあっくんとの仲を心配してくれているのだ。 「えー、うん。まあねっ」  照れ笑いをして見せて、そういうことにしておいた。まさか、糸瀬を殺したばかりで動揺していたと話せるはずもない。  始業を告げるチャイムが鳴った。彩美は「今日、あいつ休みかな」とにっこり頷くと、前方の自分の席へと戻って行った。「あいつ」とは言うまでもなく糸瀬のことで、糸瀬が風邪などでごくたまに欠席する日は、皆いきいきしているのだ。  がらりと扉が開き、担任が入って来た。担任は、神妙な顔つきで出席簿を教壇にとんと置いて開くと、眼鏡をゆっくりと押し上げ、大きく息を吸い、静かに吐きながら話を始めた。 「えー、今日は皆に、悲しいお知らせがある」  その真剣な物言いに、皆はしんと静まり返った。何が起こったのだろうと、授業よりも集中して担任を見つめている。  私は唾を飲んだ。糸瀬のことだ。糸瀬のことに違いない。もしかすると、すでに自分が容疑者として浮上していて、あとで呼び出されるのかもしれない。 肩がすくんで、体が固まった。顔が青ざめてしまいそうになるのを、なんとか堪える。  担任は俯き加減で、眉間に深い皺を作って続けた。 「実は、この土日の間に学校に知らせが入った。我がクラスメイトの糸瀬君、糸瀬修羽(しゅうは)君が、亡くなった」  その知らせはしん、と教室内に響き渡った。その瞬間に、私以外の全員が「えっ……」と、声にならない声を漏らして絶句した。  私は拳をぎゅっと握って歯を食いしばった。震えてしまわぬように。冷や汗が流れぬように。  担任は一番後方で身を屈める私を見ているのだろうか。それを確認することもできない。耳をそばだて、淡々と続く話を聞いた。 「警察の話によれば、先週金曜日頃、糸瀬君は南千田池公園の池に、財布を拾おうとして誤って転落してしまったみたいだ。何とも不幸な事故だな……。皆驚いたと思うが、まずは糸瀬君を思って手を合わせよう。葬儀については、ご家族からお知らせがあったら皆に伝える」  皆戸惑いながらも、糸瀬の席を向いて目を瞑り、手を合わせた。それもそれで、おかしな光景だと思う。誰一人、衝撃のニュースに思わず泣いてしまったり、担任に質問をぶつけたりする者はいない。私も皆に倣って、必死で平静を装い、手を合わせた。  五時間目が終わる頃には、ほとんど日常へと戻っていた。いやむしろ、これまでの三年五組よりも一段階、ぱっと明るくなったといってもいいかもしれない。もし仮にこれが、皆に愛され皆の人気者といった人物の死だった場合、一日がどんよりと、それこそ葬式のような空気に包まれたことだろう。  いかに糸瀬が皆に疎まれていたか──。  糸瀬にいじめられていた者、糸瀬に無理やりに恋人にさせられた者、どこか晴れかな表情に見えなくもなかった。  これでいい。これで正解じゃないか。私にも、あっくんにも、皆にも平和が訪れたのだ。  教科書を鞄にしまい、帰り支度を済ませて立ち上がろうとした時、ふと視線を感じて顔を上げた。特段仲が良いわけでもないクラスメイトの男子、頓宮郁人(とんぐうふみと)がこちらを見ている。  偶然目があっただけかと思ったが違った。頓宮はつかつかとこちらに向かってくる。どことなく薄っすらと笑みを浮かべて。  放課後の喧騒に紛れて、頓宮は薄い唇をにやりと上げ、私だけに囁いた。 「糸瀬君、よかったね」
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