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「あっくん!」
三年三組の教室に走り、男子数人とたむろして話しているあっくんを呼んだ。週に三回ほどは一緒に帰っているので、私が呼びに来ることは彼らも日常の一コマとして受け入れてくれている。帰りが私とでない日は、今あっくんの隣にいる谷川君や、私と同じクラスの石田、そして頓宮など、近所の同じ中学出身メンバーで帰っているようだ。しかし、今日は頓宮の姿はなかった。さっき私に意味深な言葉を残した後、あのままあっくん達と合流はせず、帰ったのだろう。
「おお、お疲れ」
あっくんはいつも通り、ゆったりと私を見て微笑むと、もたれていた腕を机から離した。谷川君と石田に「じゃあ」と言って、あっくんは私の方に向かって来てくれる。二人も「おう」と手を上げて見送ってくれた。
あっくんが廊下に出て来たところで腕をそっと掴み、身を寄せて小声を作った。
「あっくん、どうしよう……」
「ん? どうした?」
あっくんはいつだって慌てず、ゆったりと受け入れてくれる。瞬きをするあっくんを見つめて、とにかくここでは話せないからと、押し黙ったまま校舎の外へ出た。冷たい風が鼻を掠め、スカートを揺らした。次々と出会う友達と軽く会話を交わしながら、あっくんと自転車置き場へと向う。早くこの不安と恐怖を話してしまいたいけれど、周りには下校する生徒が沢山いたので、人気がなくなる場所までと我慢した。
いつもなら帰り道のお喋りを楽しむために、私は銀色の自転車を押して、徒歩で下校するあっくんに合わせて歩く。駅へ流れ込む生徒や、徒歩圏内の生徒がいなくなって、学校から少し離れたところにぽつりとある南千田池公園に寄るのだ。大きなメタセコイアの木の麓に自転車を停め、池を眺めるベンチに並んでお喋りして帰るのが、我々受験生のささやかなデートコースだった。
「あっくん、今日は公園まで飛ばそう」
正門を抜けて少し歩いたところで提案した。生徒がいる圏内では絶対に話せない。誰もいないあの公園で話したい。それも一刻も早く。
「うん、いいよ」
あっくんは私からハンドルを受け取ると、サドルに跨った。私はスカートに注意して後ろの荷台に跨り、あっくんのダウンを握った。
「オッケー」
背中越しに合図を送ると、あっくんがペダルを漕ぎだす。正門に立って生徒達を見送っている生活指導の大森先生が、「こらそこ、二人乗りはやめなさーい」と声を張り上げている。いつも元気のいいおばちゃん先生だ。私達の学校、千田池高校は、校門から駅まで約一キロの大きなイチョウ並木が自慢で、緩やかな下り坂になっている。私はちらりと大森先生に振り返り、「今日だけー」と手を振り、これ幸いにと、徒歩で帰る生徒達を追い越してしゃあっと下っていった。
スピードに乗ると、一層冷たく感じる十二月の風。一面黄色く染まっていたイチョウの葉は、今では通学路に枯葉の絨毯を作っている。車輪が落ち葉を踏むたび、くしゃりくしゃりと鳴った。
目の前にあるあっくんの大きな背中、たくましい肩、ハンドルを握る腕、風を切って揺れる髪、全てがたまらなく好きだ。決してお喋りでないあっくんは、何も言わず私を乗せて走る。がたんと大きな段差を越えると、「ごめんな」と肩越しに笑った。そういう、さりげなく優しいところも大好きだ。
メタセコイアの公園に着いて、自転車を降り、あっくんはいつも通りそれを木の麓に停めてくれた。今日もいつもと変わらず、ほとんど人はいなくて、夕方前の冬のもの悲しさだけが広がっている。メタセコイアの葉は赤黄に染まり、風に揺れて散り落ちていった。
いつものベンチに並んで腰かけ、池を見つめた。糸瀬の殺害。それはまるで夢だったかのように、まだ現実味がなかった。
「それでね、あっくん。あっくんは、頓宮に何か言われた?」
自転車を漕いで上がった息を整えながら、あっくんはくるりと私を見てきょとんとした。
「頓宮? いや? 今日あいつに会ってないな。なんで?」
やはり、と思った。頓宮は私にだけあんな意味深な言葉をかけていったのだ。
誰にも会話を聞かれていないか、何度も周囲を確認してから、切り出した。
「それが……。今日、担任から、糸瀬が池に転落して亡くなったって話があったんだけど、不幸な事故死だったって」
一呼吸置くと、あっくんは「ああ、うちの担任もそう言ってた」と頷いた。
「で、さっき、放課後、帰り際に。頓宮が私の所に来て、笑って言ったの。『糸瀬君、事故死になってよかったね』って」
堪らずあっくんの腕をぎゅっと掴んだ。
「ねえもしかして、頓宮に見られてたんじゃない──?」
唇を噛んだ。不安で、恐怖で、押し潰されそうな気持ちを、あっくんの腕を握る手に込めた。あっくんはいつだって慌てない。驚きを見せたあと、そっと私の手を包み、眉間に皺を寄せてじっと地面の落ち葉を見つめた。
「いや、でも、それだけじゃ何ともわからないし、それ以外何も起こってない。俺には何も言って来なかったんだし。友香の聞き違いってこともあるかもしれない。あいつが何を意図したかはっきりするまで、このままいつも通り過ごしてれば大丈夫だよ、友香」
あっくんの声は、低くて、温かくて、私の大好きな声だ。聞いていると不思議と落ち着いて、愛おしさが込み上げる。今にも泣きそうで、唇を噛んだままあっくんを見つめた。
「でももしバレたら……」
あっくんの胸に蹲るように俯いた。
「大丈夫。警察だって、転落したんだって、あれは事故死だって判断したんだから」
あっくんが両腕でそっと私を抱き締めてくれる。硬い胸板とあっくんの体温が私を包んで、もう嗅ぎ慣れたあっくんの家の洗剤の香りを吸い込んだ。
冷たい風が足元の落ち葉をからからと転がした。静かすぎる池の水面が、錆びた柵が、メタセコイアの葉が、わたしは全て知っているからなと、脅してくるように見えた。
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