Case4. 花匣

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Case4. 花匣

日が暮れてから調査に行きたい。あかねにそう頼まれてから、待ち合わせ時間である22時まで暇を持て余した紬は、一人で資料に記されていた現場を訪れていた。  薄明の空を背に、朽ちようとしている教会の奥へと足を踏み入れる。膝丈にまで伸びた雑草がちくちくと足に刺激を与えてくるが、特に気に留める事無く進み、左側の扉が崩れている扉をくぐる。    踏みこんだ先は、別世界のようだった。  そんな陳腐な感想が浮かぶほど、内部は美しく手入れが行き届いている。  円状に限りなく近い形状で設置されたベンチはアラベスク文様に似た模様が彫り込まれ、中央の祭壇には黒い金属製の逆さ十字が飾られていた。美しい装丁の黒い経典は、吹き込む風に合わせてぱらりぱらりと捲れている。    邪宗教の教団でもあったのだろうか?  それらを写真に収めながらも、直前まで大勢の人がいたような濃い気配が残っている事に気が付き警戒を強める。もし集団で襲ってくるようなことがあったら、立ち回る事が出来るのだろうか。対人戦の経験は無い。アヤシ相手でも実戦が無いのは同じだが。人相手は勝手が違う。それでも、事件を起こしている時点で犯罪集団に過ぎない。  無傷で。と言うのは無茶だが、多少の怪我を覚悟しておけば逃げきれる。そう判断する。人間であれ、アヤシであれ、適切な道具と使いこなす能力さえあれば、そこまで怖くないものだ。最も怖い事は、緊張と恐怖に呑まれて自己を見失う事だろう。戦うのではなく、撤退する。そう決めて置けば脳が混乱する事無く適切な判断をすることが出来るはずだ。    長く息を吸い込みぴたりと止める。じわりと背中を伝う汗には気づかないふりをした。放っておけば浅くなる呼吸を意識して深い物に切り替えるために、吸った息を少し止めてからゆっくりと吐いた。  濃くなっていく気配に取り囲まれてしまう恐怖を抱くが、何も感じてなどいないふりをして、表情を変えずに足を振り上げた。恐怖をどう克服すべきかは主査と呼ばれている己の師によって教わっている。    床に強く叩きつけた足の裏と膝は痺れるような痛みを訴えてきたが、腰より高く足を持ち上げてさらに数回叩きつける。その音が響くたびに気配が散っている事に安堵した。   ――いい? あなたは感情がすぐに顔にでる。殺意や怒りなんかは威圧にもなるから構わないけれど、恐怖まででるようじゃ、アヤシの調停なんて一切出来ないわね。残念な事。    そう言ってため息をついた綴の言葉を反芻し、威圧の代わりに足を鳴らしたのだ。だが、ここにいるのは駆け出しのひよっこ。アヤシに情報共有という言葉があるかはわからないが、ひよっこがアヤシに警戒し、的確に威嚇をする事はあるのだろうか? そこまで考える余裕ができたところで、端末に自身が感じた情報を入力がてら声を出す。    「床には特に異変無し、っと」    あくまでも事前調査なのだ。広場に集まっていた受講生を思い出しても、そこまでしっかりと行動に移せそうな人はいなかった。そこまで考えたところで、自身の思考に余裕が戻ってきている事に気が付いた。    (落ち着いて。落ち着いて。綴の言葉を思い出せ。  呼吸を変えてはいけない。アヤシは敏感だから。  焦って行動してはいけない。アヤシは俊敏だから。  表情に恐怖を出してはいけない。アヤシにつけこまれるから)    単独行動をした事は浅はかだった自覚がある。反省もしている。それらはここを無事に出てからすればいい。今は手に入れられるだけの情報を端末に記録し、外に出る事だけを考えるべきなのだ。恐怖も、なにもかも今は奥底にしまわなければ、その恐怖に呑まれるのは紬自身なのだ。  事前調査で祭壇を調べるべきか、悩んだのは一瞬だった。祭壇に回り込み、黒い本を手に取る。べたりと手に張り付く表紙は生暖かく濡れている気がした。感触も記録にしっかりと残し、頁をめくる。電子媒体ではなく紙媒体であったことに違和感を覚えたが、宗教的なものは未だに紙媒体が多い。と、綴が行っていた事を思い出して、これはやはり宗教的なものなのだろうと推察する。  果たして、アヤシがこのような書物を使用するのだろうか?    アヤシではなく、犯罪者集団の可能性も考える必要が出てきた。と、気を引き締めながら祭壇の下を確認すると、そこには小さな扉が設置されていた。  順当に考えるならば、これは地下への入り口だ。地下にはなにがあるのだろうか?  開けてはならないと頭のどこかで警鐘が鳴っている。これは単独では厳しいものだ。触れるな。と手に滲んだ汗が訴えている。それでも扉に手を掛けたのは、より多くの情報こそが調停人としての仕事に必要だろう。という判断ではあった。だが、冷静さを失っているが故の行動である事には気づく事が出来なかった。既に紬は恐怖に囚われており、それを振り払う事に意識が向きすぎていたのだ。綴がこの場に居たら、三白眼で睨みつけられ修行のし直しを命じられた事だろう。しかし、今は紬一人。判断も、行動も全ての責任は紬のものとなる。    (一応、連絡しておこう)  家で眠っているのであろうあかねに居場所だけ送信し、扉を開く。  時刻は午後4時。赤く大きな太陽が祭壇とその周辺を照らし、血の海を想起させる紅色で床を染めている。噎せ返るような鉄錆びの香りが扉の奥から漂ってくる。軋んだ音と共に扉を上に引き上げれば、べしゃりと顔に鉄の香りに似た臭いの液体が飛んできた。  気持ち悪い。  どこか懐かしい臭いに両手で口を覆う。こみ上げる吐き気を堪え、1段、1段と下りていく。扉には鍵が無かった事から、閉じ込められてもなんとかなるだろう。と、あえて扉は閉めた。一番怖いのは、()()()()と中で遭遇する事だ。  ポケットから取り出したペンライトは、足元を照らすには十分な光がある。梯子のように急な階段は濡れていて、足が滑る。慎重に下りていくと10段を過ぎたくらいで平面についた。電波を確認するが、かろうじて通じるらしい。一応、保険に綴にも現状を簡単に報告しておく。これでなにかあっても、すぐに発見される事だろう。    暗い空間を照らしたライトが白い塊を捉えた。写真から動画に切り替え、足音がたたないように意識しつつもゆっくりとそれに近づく。雨漏りをしているわけでもないだろうに床は濡れており、水音の反響だけでも緊張が増す。ただ、得体のしれない気配は無く、それだけでも十分落ち着いて行動できる。と、紬は少しだけ肩の力を抜いた。  白い塊に近づくほど、鼻につく鉄錆びに近い臭い。それを血だと理解する事に時間はかからなかった。    美しい。という表現をする事は不謹慎である事くらい紬にはわかっていた。だが、そこにあった匣は「美しい」と言う言葉がよく似合う不気味な魅力があった。    長く伸ばされた黒い髪は、敷物のように敷かれ、匣の扉部分にあたるであろう頭部は綺麗に手折られ顎を外され、瞳の代わりに紅玉が。そぎ落とされた鼻の空洞は鍵穴に細工され、下顎と舌は消え、二本だけ残された歯には銀の鍵がかかっている。  腕も、足も、胴も、綺麗に折り畳まれた肉体。胸を中央にするためか腰が妙な曲がり方をしている。それだけの事なのに、この匣は未完成だと脳が直ぐ理解した。    上部の中央。膨らみがあっただろう胸は暴かれ、自重で沈まないように固定された状態で剥き出しになっている心臓には、四輪の花が活けられている。よく見ると、心臓は僅かに脈打っており、どくりと動くたびに活けられた白い花弁が少しずつ朱を帯びていく様がわかる。おぞましい死体であるはずなのに、生を感じる。  呼吸も忘れて魅入られていた紬は、無意識に動いた爪先が立てた水音に我に返ると、匣と化している死体から目を逸らし、先ほど自分が入って来た入り口に向かってかけだした。    水音の反響も、荒くなる呼吸も気にしてはいられない。一秒でも早くこの空間から出たかった。  匣に向かって足が一歩動いていた。その事実だけで充分だ。あれは、危険だ。死体の心臓が動くはずはない。血抜きが済んでいるはずの死体から、未だ血を吸い取る花などありはしない。なにより、一面しか見えないはずなのに、六面全ての細工が理解できるはずがない。  できるとしたら、それを行なったとしたら、この空間そのものが何者かの支配下にあるという事だ。死体に対して抱いた美しいという感動も、今は異常だと分かる。自身の感覚が信じられないならば、逃げるしかない。精神に入り込むことができるアヤシがどの程度強いのかはわからない。少なくとも、上で感じたのは残滓のようなものであり、あれはアヤシですらないだろう。と、今ならわかる。何かが囲んでいたのは確かだが、あれらは侵入者に対して立ち去れ。と警告していたのだろう。あれは、あれらは、匣に囚われた者達だ。    息が切れ、苦しさが増すがなりふり構ってはいられない。数回、誰かから着信があったが、出ている余裕もない。そもそも階段が遠い。進んでいる感じがしない。パニックを起こしてはいけないと頭では理解しているのに、感情がついていかない。圧倒的に不利だとわかり、逃げようとしても出口が見つからない。次は自分かもしれないという死に対する恐怖は、調停人の仕事に立ち会った時には感じなかったものだ。  もしかしたら、こういう危険度の高い事案からは遠ざけられていたのかもしれない。そもそも、研修生にやらせる案件ではないだろう。これこそ、本職がやるべき事案だ。    口の中で思いつく限りの悪態をつきながら、ふざけるな。と数回声に出して呟くと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。時計を確認する。午後10時。一体、何時間、この空間にいたのだろうか?  神隠しにあっている気分だ。周りを見ると、匣が中央にあり、自分の立ち位置は何も変わっていない。  電波が消えていない事を幸運と思う事にして、先ほどから五月蠅い着信に震える指を動かして応答する。誰でもいいから来て欲しいと思った。一人だけこんな目に遭うのは理不尽だ。と、自身が先走った事は棚上げして全力で巻き込もうと心に決める。  「もしもし」  電話の相手が息を呑んだ気配がした。  「もし、もし!?」  「同じ言葉を繰り返す事がアヤシは出来ない。って古典ギャグについてなら、付き合う余裕はないの!」  「その様子だと、無事だね!? なんで一人で奥までいっちゃうかなー。普通待たない!?」  耳が痛くなるほどの大声で文句を言われても、反論の仕様がない。実際、場所の危険度を過少評価したのは自分だ。行けると思った事が間違いだった。と、小言にしては大きすぎる声量のあかねに平謝りしながらもう一度後退を試みる。がむしゃらに走るのではなく、匣から目を逸らさず、1歩、1歩、後ろに下がっていく。先ほどと違って声が反響しているのだが、自身の心音は静まっている。怒っている声で安心する日が来るとは思わなかった。呼吸が整っていく安心感と、頭の中がクリアになっていく感覚は綴と一緒にアヤシの領域に初めて足を踏み入れた時に似ている気がした。  「出られそう!?」  さっきまで無理だと思っていた「出る」という感覚に、小さく笑って「もちろん」と返した。匣は、最初に明かりが捉えたときと同じ大きさになっている。鉄錆の臭いも薄まっている。今なら、帰還できる。  「そうやって騒いでいる、あなたは今どこにいるの?」  「多分、つーちゃんの真上ですけど!?」  やっぱり夜の方が元気だな。と、昼間よりはるかに騒がしい相棒の声に肩を竦めて振り返る。先ほどは二度と見つけられないと思っていた階段が目の前に存在していた。
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