素面(しらふ)

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 話を戻そう。お伊勢参りである。ユーチューブなどで必死に情報を集め、参拝の作法なども調べ、万全のつもりで臨んだ。だが、当日の伊勢市の天気は、雨の予報だった。大きな傘を持って出発した。それをあたかも天が知っていたかのように、特急で伊勢市駅に到着した途端、はらはらと空が泣き始めた。ただ、こと神社の参拝においては、当日の雨天というものは、穢れを洗い流す「禊ぎの雨」という解釈もあるらしい。気にしないことにした。季節は十月上旬。秋。秋雨の幸いな点は、風までもが嫌味に粘っこくないことだ。はらりはらりと音もなく降る雨へ、優しく寄り添うかのごとき清涼さ。つまりは、暑くはあっても、不快ではなかった。  早速、伊勢の神宮へ行く前に立ち寄るべきとされる、「二見興玉(ふたみおきたま)神社」へ向かった。名勝である「夫婦岩」の見事さもさることながら、鉄の綿のような曇天ではあれ、雄大な海を長らく見ていなかった創一だ。水平線に思いを馳せられただけでも十分な感慨だった。人は、海から来て、海へ還るものだ。そんな、まるで生粋の漁師のような思いさえ浮かんだ。創一に、まさか漁師の経験はない。かろうじて、溺れないように泳げる程度だ。創一は、その自身のキザったらしさに、一人苦笑いをした。他者へは感情を発露しないくせに、自然、ないしは超自然に対しては心が動く事実。このあたり、ひねくれていると言うよりもむしろ、過去の疲労の蓄積がなせる技であろう。  「二見興玉神社」と、その奥にある「龍宮社」でそれぞれ参拝し、二枚の書き置きタイプの御朱印を頂いた後、いよいよ、伊勢の神宮だ。慣例に則り、外宮から参拝したのだが、雨にもかかわらず、大変な人出だった。多少げんなりしたのだが、考えてみれば、だ。江戸の昔より「一生に一度は」と言われた、お伊勢さんである。今日の天気など知らずに、ずっと前から予定を立て、遠方から参拝に来ている人間も少なくないはず。それに、他の参拝客からすれば、創一だって「そのうちの一人」なのだから、自分だけが、他者を奇特に思っていいはずはない。さておき、一の鳥居をくぐった時点で、「よし!」と思った。なぜか? 肌への空気感が違うのだ。直感的に、神域へ入ったと理解した。「スピリチュアル」と言うと、今のご時世的に「うさんくさい」の枕詞のようではあるが、現に肌感覚として「空気の引き締まり具合」を感じられた。一笑に付すことも、あながちできないのではないだろうか。創一は、伊勢の神宮が、公式ホームページで公開しているモデルコースのマップ通りに回り、約六十分を費やした。どこのお社も行列ではあったが、それぞれにおいて、真面目に手を合わせた。ちなみに、神社へ参拝する折には、あまり個人の願いを神々へ押しつけるべきではないのがいいらしい。その代わり、日頃の感謝を捧げるべきとのこと。まあ、創一も、是が非でも叶えたい願いもある。だが、そこまで強欲ではないつもりだ。何せ、こんな「『めんどくさい』を等身大フィギュアに仕立てようとして、見事に失敗した」ような男が、仮にも生きている。それは、神に感謝せずして、いかにしよう? と言う話である。神に対して感謝の心を忘れた人間ほど、醜いものはないだろう。神社、あるいは神道に興味がないのならば関係のない話ではあるが、伊勢の神宮の外宮は、「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」ではなく、衣食住全てを司る「豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)」を祀っているところだ。もちろん、己を御するのさえが面倒臭くはあれ、衣食住に足りているのだから、そこも神に感謝するべきである。その通りにした。  外宮を出てから、別宮の「月夜見宮(つきよみのみや)」へ向かった。伊勢の神宮は、全ての別宮や摂社や末社をカウントすると、総計百二十五社に上る。いくらなんでも、全部は絶対巡れない。だから、主だった別宮を、行ける範囲で巡ることにした。外宮や内宮と違い、別宮は総じて参拝客が皆無に等しく、居心地がよかった。御祭神がどちらの神であるか? どんなご利益があるか? については、もはや、記憶の限りで最小限度に触れるだけにする。月夜見宮のように、名前から「ああ、月読命(ツクヨミノミコト)か」などと分かる場合もあろうが、創一的には、「八百万の神々全てに、つまり、森羅万象全てに感謝を捧げたい」のであるから、御祭神のお名前や御神徳など、はっきり言って二の次、三の次なのだ。そうは言うものの、先述の通り、個人的に叶えたい願いもあるにはある。だから、あくまで「オマケ」程度には祈るのだが。月夜見宮での参拝を終え、御朱印を……と思った時、しまった、と気付いた。外宮での、参拝後の御朱印を頂き損ねていたのだ。慌てて外宮に引き返し、頂くべきものは頂いたのだが、体力的に無理があった。特に足が引きつって、ひどく痛かった。なので、外宮を離脱した後、その日はもう、ホテルにチェックインした。  翌日、やはり、さらさらと禊ぎの雨が降っていた。だが、慣れという物は恐ろしい。一度経験したからには、既に平気になっていた。ホテルをチェックアウト。御朱印を頂くためだけに月夜見宮を再訪するのは、なんとなく気が引けた。よって、再度、お社で感謝を捧げ、それから社務所へ向かうことにした。やれやれ、と思いつつ、内宮参拝の前に、別宮の一つである「倭姫宮(やまとひめのみや)」を目指した。  バス停からかなり歩き、相当な疲労と共に到着した「倭姫宮」にも、参拝客は創一だけであった。心ゆくまで、感謝を祈った。  その足で、次は、内宮近くに鎮座する「猿田彦神社」へ向かった。御祭神の「猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)」は、「道ひらきの神」であり、その妻である「猿女君(サルメノキミ)」こと、「天鈿女命(アメノウズメノミコト)」は、芸事の神として、芸能人の崇敬が厚い。実際、敷地内にて「猿女君」を祀る「佐瑠女(さるめ)神社」には、数多の著名芸能人やクリエイターが奉納したのぼりが立っている。もちろん、執筆も芸事だ。同時に、作家として道が開けて欲しいと思う。だから、それぞれにおいて、結構必死に祈った。ついでに、絵馬も奉納した。  「猿田彦神社」を離脱し、いよいよ内宮。鳥居をくぐった際の空気感の違いは、一切の穢れを許さぬほどに、凛、そして厳と身が引き締まり、清々しかった。創一には、特に霊感の類があるわけではない。であるにも関わらず、明確に空気感の違いを覚えるのだから、伊勢の神宮が秘める「力」というものは、ちょっとやそっとでははかりしれないのだと思う。と、手水舎で、いかにも軽薄そうな若者達が、お清めの作法を知らずにヘラヘラ笑いつつ、「(スマホで)調べるかぁ?」などと言っていた。恐らくあの若者達にとって、この場は神聖なものではなく、「なんか願い事が叶うらしい、パワースポット」という認識なのだろうと察した。だが、そこに目くじらを立てるべきではない。神々も、無礼な輩の身勝手を律儀に叶えてやりたくはないだろう。しかし、これは、明確な教義のない、柔軟な神道ならではかも知れない。だが、そもそも信仰というものは自由であるべきなのだ。逆に、全てに於いて正式、正確にあらんとする。それが、硬直化という言葉で片付けられてしまう可能性だって十分にある。そう納得は一応したものの、仮にも神のおわす聖域において、ひどく礼を欠いた態度という物も、やはりどうかとは思う。古臭い、かつ、オッサン臭い、仰々しい、エトセトラ。創一を誹る言葉は百とあろうが、格式と礼儀を欠いた社会は、頭の悪い幼児が跋扈する、ただの無法地帯だ。いかに時代が移ろおうが、この格式と礼儀を失ったならば、その時こそ、日本人という人種はいなくなるのだ。特段、神道に興味がなくとも、昔から言うではないか。「お天道様が見ているぞ」。その心構えこそ、日本人の本質だろう。さらに、周知の事実として、「天照大御神」とは、すなわち太陽神だ。つまり、我々は常に、「天照大御神」の掌の上なのだ。創一自身、日本神話はズブの素人だ。だから、偉ぶって講釈を垂れるつもりは毛頭ない。だが、世の中の親たちは、誰が言うでもなく、あるいは、その親から言われた通り、連綿と、太陽神が常に全てをみそなわしていることを、産まれた時から子どもに教える。記紀に詳しくなくとも、政治の思想も関係なく。日本人である限り、太陽が大いなる神であるということ。それは、遺伝子に刷り込まれている。その御神威を、誇張抜きで間近で、文字通り肌身に感じることができるのだ。やはり、伊勢の神宮は、日本人にとって重要、かつ特別な場所なのだ。家から遠く離れているにも関わらず感じる、「帰宅感」。「心のふるさと」は、伊達じゃない。モデルコースに沿って、今度は九十分をかけ、じっくり巡った。  ここは、年に一回は参りたい、という思いと、充填された御神気を胸に、手には内宮のそれが加わった御朱印帳を持ち、内宮を後にした。そして、門前町である「おはらい町」を抜けたところで、だった。同じく別宮である「月読宮(つきよみのみや)」への案内板を見つけた。そう遠くないらしい。方向音痴の哀しさで、位置関係をまるで把握していなかった。折良くそちらへ向かうバスが来たこともあり、飛び乗って目指した。  「月読宮」でも、参拝客は創一のみ。ますます静謐なる神域にて、同様に感謝を祈った。そして、大変充実した疲労と共に、そこから帰途についた。初のお伊勢参りは、非常に実り多きものとなった。
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