素面(しらふ)

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 以降、創一の「居場所探し」が始まる。そこまで仰々しい言い方も、もしかしなくても無用かも知れない。要は、伊勢の神宮での神域の居心地がよかったため、味を占めたわけだ。神社一つ取ってみても、日本には万とある。俗な動機なのは百も承知で、より力が強いと言われている神社を巡ることにした。後になって身に沁みて知るのだが、有名どころと言うものは、イコール、他の参拝客が多いと言うことだ。特に、例の疫病禍にかかる行動規制が緩和され、かつ、円安の昨今。外国人観光客が来日しない理由がない。喧噪を避けたい。いわゆる穴場へ行きたい。そういうことをリサーチするのは好きだ。徹底的にネットの検索を重ねた。  結果、地元と言って差し支えない、神戸市灘区の六甲山中。そこに、知る人ぞ知る神社があるという事を知った。ネットの情報の曰く、「参拝するのも命がけ?」云々。まあ、どうせ神戸市内だろ? と、地元民特有の甘い見積もりと共に、その神社、「六甲比命大善(ろっこうひめだいぜん)神社」へ、別の週末に出向いた。そして、ネットの情報が、当たらずとは言え遠からじであることを体感した。六甲山も、立派な山だ。山頂まではケーブルカーで登れる。また、神社の最寄りまでも、バスが通っている。その最寄りのバス停で降り、歩き始めた。は、いいのだが、いざ案内の看板を見つけ、その指す先を見た。どう見ても獣道。鳥居もなければ、しめ縄の一つもない。意を固めて踏み込んだ。お世辞にも整備されているとは言えない、険しい山道。そこを、秋だというのに夏日の中、汗だくになって進んだ。木の根につまずきそうになる足下。トレッキングシューズを新たに調達して、大正解だ。慎重に降りてゆくと、頼りない鉄製の仮設階段。その下に、非常に慎ましいお社があった。数人の人がいた。男性と、女性が数人。男性はスーツ姿だったので、神職ではないだろう。後で知ったのだが、神社を管理している方だった。お社の前にテーブルを広げ、お守りなどの各種授与品を頒布したり、他の参拝客に、神社の御由緒などを説明したりしている。参拝の後、書き置きタイプの御朱印と御神札を頂いた。たどり着くのもかなり困難であり、携帯の電波すら届かない山の中に鎮座する神社だ。それにも関わらず、目視した限りで、四、五人は参拝客があった。これも後になって知ったのだが、「六甲比命大善神社」の御祭神である「瀬織津姫(セオリツヒメ)」。それが昨今、スピリチュアル界隈でちょっとしたブームになっているらしい。結果的に、創一も便乗者にカウントされてしまい、複雑な思いを抱いた。だが、「六甲比命大善神社」での本質は、そこではない。この神社は、磐座が御神体だ。お社から少し下ると、「それ」を拝むことができる。超巨大な、ウサギの形をした磐座。一説に、縄文人が作ったとも言われているらしい。そんな古代に、どうやって? という、大いなる謎は残る。だが、比類なきロマンには変わりないだろう。ああ、あの磐座を前にした時の感動を、文字で表現するには、創一は力不足だ。とんでもない「圧」だった。問答無用。威厳。風格。歴史。謎。超越。空前。絶後。御神気かどうかは分からない。ただ、足がすくんだ。めまいを覚えた。その場へくずおれそうになったのを、踏ん張った。祈る意外にどうしろ? という状況だった。何か、人間としての根源、根幹を、直接わしづかみにされて、激しく揺さぶられる。そう言うのが、最も近しい表現だと思われる。巨岩や巨木を崇拝する、古代神道の流れ。その息遣い。あの「圧」は、普通に生活していたなら、まず出会えない類の物だった。ところで、詳しくは割愛するが、御祭神の「瀬織津姫」が、どんな神であるか? には、諸説がある。記紀には登場せず、「大祓祝詞(おおはらえののりと)」にのみ、その名があるらしい。「弁財天」と同一である。あるいは、これは「天照大御神」が、通説とは違って男性神だという前提なのだが、その妃である。またあるいは、「龍神」である。率直に言って、創一は、龍神様にあやかりたくて、わざわざ参拝した。しかし、あの「圧」を感じた瞬間、全てがどうでもよくなってしまった。ただただ、深い畏敬の念のみが、その身を満たした。無心で祈った。自然への敬意。手垢の着いた表現ではあるが、人間もまた、自然の一部。「他者」というものは、何も「他人」のみを指すのではない。木々も、岩も、海も、空も、風も。親愛なる、そして畏怖すべき「隣人」なのだ。万の言葉を並べるよりも、一瞬で自然に「分からされた」。敬意。カタカナで言えば、リスペクト。人間に限らず、あまねく万象に敬意を払える者こそ、真の意味で「優しい」と言えるのではないだろうか。  ちなみに、創一にとって「優しさとは?」というのが、「永遠の命題」だったりする。だが、彼は決して、自分で自分を「優しい」とは言わないようにしている。そもそも、人の性格などと言うものは、他人が決める物だ。  また少し話は飛ぶが、「文学」というものも、そうではなかろうか。以下は、創一個人の意見だ。その上で、どうにも「ブンガク」(異質感を表すために、あえてカタカナで表記する)を志す手合いは、躍起になって求めていないか? 無駄な崇高さを。あるいは、箱庭のような狭い範囲での、ちっぽけな権威を。平たく言えば「痛い」タイプの人間が多いような気がする。あえて口汚く言うが、連中は、小説を書くことに、何らかの資格が必要だと思っている節がある。例えば、主だった古典純文学を一通り読破せねばならない、とか。一日に一冊は本を読まないといけない、とか。はン、笑わせンな。理屈をこねるよりも、まず原稿用紙一枚でも書けよ。俺の経験を語ってやる。前職のゲームライター時代の話だ。常に人手不足の業界ゆえ、新しいライター志望者は歓迎している。当時の俺の知り合いが、ライターに志願してきた。俺はその頃、シナリオライターと兼務して、ディレクターもやっていた。裁量権はあったが、まずは上に話を通すのが先だ。プロデューサーの許可をもらった。それから、俺はその知り合いに言った。サンプルシナリオを提出するように、と。当たり前だろ? 力量が分からない限りは、ジャッジのしようがない。しかし、だ。その知り合いは、待てど暮らせどサンプルを出なかった。それどころか、そのまま音信不通になった。ッざけンな? こっちが欲しいのは、結果なンだ。理屈じゃねえンだ。書けねえ奴は要らねえンだ。最近は、小説教室が多いらしいが、そこでも、座学にだけ熱心で、まったく書かない奴が一定数いるらしい。やはり、お笑いぐさだ。「脳内での大作家先生」なんぞ、屁の役にも立たねえっつうンだよ! クソッタレが!  ……一応、創一も、プロとアマ時代を併せれば、通算二十七年間書いてきた身だ。それなりの自負がある。だからこそ、口先だけの人間が、何よりも嫌いなのだ。テンションを戻そう。信仰と同様、文学も、もっと自由であるべきだと、創一はそれこそ「信仰」している。同時に、この作品が「文学」であるかどうかも、正直、創一にはどうでもいいのだ。なぜなら、「そう」であるか否か? は、自ら吹聴するものではない。受け取った第三者が決めるものなのだから。  大幅に話がそれたが、「六甲比命大善神社」への参拝もまた、得がたい経験をすることができた。充実したものだった。神社の神域にいると、己の目にすっかり褪せてしまった世界の色が、明確に戻っていく感覚がする。木々の爽たる緑を見よ。水が静に澄み渡るを感じろ。空はあんなに蒼いではないか。風に色はないが、清廉に透明であろう? 「無遠慮な共演者」達も、神々の前ではしおらしい。なるほど、「今、ここ」は舞台であろう。しかし、「神々という観客」がいらっしゃる。  踊れ! 歌え! 人生という名の残酷人形劇(グラン・ギニョール)を、超越の御存在に御覧に入れろ! 全ての罪は赦されず! しかし「ご開帳」することで、幾ばくかの猶予が頂ける! その安寧の余白を、命尽きるまで積み重ねるがいい! 死せる際には、来世での原罪として、汝はそれらを背負うであろう! 罪の負債は決して消えることなく! どうやって「棚上げ」できるか、あるいは、し続けられるかが、きっと人生の意味だ! 背負った罪の重さに耐えかねた時! 人は人を殺めたり、自分で死んだり、病気や事故で死んだり、寿命を迎えるのだ! どうだ、この救い難きよ! 度し難きよ! 素晴らしき哉、人生! うわはははっ! 世界と人類の終焉は、余人が思うよりも、筆舌に尽くしがたいほどに、いっそ虚無なまでに静かで空疎に違いない! 俺は観察者になりたいな! 自分もまた、己の罪の重さを感じつつ! あなたが疲れ果てた顔で踊るのを、冷ややかな目で見つめていたい! おい! この舞台を仕切る演出家は誰だ!? ああ、そうか、八百万の神々だったな! ならば仕方がない! 俺はあなたに従おう! 役者とは、演出家の一つのコマだ! それ以上でも以下でもない! 願わくば、リテイクは控えめに! 人生という舞台は! 三文悲喜劇! やれやれ、八百万の神々におかれましては、いい演出方針をお持ちのようで? はっはっは、まったく悪い冗談だ! バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!  ……念のために注釈を入れておくが、創一は酔っているのではない。極めて素面だ。ただ、人生の意味と、その「彼の目に見える」空疎さを認識、実感するたびに、まるでと言うか、そうとしか言えないのだが、ヤケクソ、あるいは捨て鉢な気分になる。ぶつけられる相手がいないので、文字に叩きつけているだけ。ひょっとしなくても、寂しい話ではある。
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