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毎晩、都合五種類の睡眠薬と抗うつ剤のカクテルで無理矢理眠るしかない、四方木創一の朝は、いつだって灰色だった。ただし、世界が単色であると認めることは、致命的な敗北を意味する。ゆえに、彼は眠りから目覚めると、心に、絵筆と種々様々な絵の具を乗せたパレットを持って、必死に色づけの作業にかかる。だが、生来から絵の才能には絶望的に乏しい。特に、色彩感覚においては見当違いもいいところである。そのため、過程も仕上がりも、芸術的どころか、子どもの塗り絵よりもヘタクソになる。こうなってくると、もう、世界にはちゃんと色があるのだ、と、信じることしかできなくなる。リンゴは赤い。バナナは黄色い。素麺は白い。信号は三色であり、虹は七色。物事を全体的に俯瞰する能力も怪しいため、「一枚の絵」を完成させることはできない。なので、目に入ってきた対象物を、唯一の武器である、認識力の水彩絵の具で、その都度塗りたくるしかないわけだ。
同時に、創一にとっては、この世界全部が大きな舞台だ。他人が全員、極めて非協力的な役者にしか見えない。彼自身、なにがしかの言葉を発する、ないしは「共演者」と会話をしようとしたならば、頭の中で綿密に台本を練り上げ、それに沿ってしか「台詞」を言えない。
こんな壮大な茶番劇など、さっさと降板したいとは常々思っているのだが、そんな勇気も根性も、到底持ち合わせていない。
そろそろ五十歳にならんとしている創一は、いわゆる「子供部屋おじさん」である。厳密には、少年期に使っていた部屋は、今現在は親が使っており、逆に彼が、親の元寝室を使っているのだが、「未婚で、実家住まいで、いまだに親のすねをかじっているおじさん」という定義に照らせば、立派に該当する。
ただの「こどおじ」ならばまだしも、創一は、統合失調症と双極性障害、そして睡眠障害を患っており、二級の精神障害者手帳を交付されている身だ。この「心の風邪」と付き合って、はや二十五年。百歩譲って精神を病んでいなかったならば、働き口も、まだあるかも知れない。だが、そうではない。そのため、今現在は、障害年金を収入の柱にして、障害者向けの、就労継続支援施設で、週に二十時間のパートタイム労働をやっている。
しかもと言うべきか、創一は、人生の折り返しを過ぎてなお、一般的な仕事のスキルを何らも持っていない。大学生時代の、電車の駅でのラッシュ整理のバイトはサボり倒していた。その大学時代から創作活動を始め、いったんはプロのゲームライターとして軌道に乗った時期もあった。しかし、自業自得で仕事を干され、十六年目で廃業した。
だいたい、施設でやっている仕事だって、ブログの記事を書くか、あるいは、クラウドソーシングサイト経由で、ユーチューブに公開する、朗読劇のシナリオを書くのがもっぱらだ。つまり、「ものを書く」以外のスキルを、全く持っていないわけだ。つぶしが利かないことが甚だしい。ならば、単純労働は? 要領が極めて悪い上に、非常に飽きっぽいと言うか、好きでもないことに集中力が続かないので、できない。体力は? からっきしであるがゆえに、肉体労働などは、ナメクジに「おすわり」をしつけるがごときだ。
しばらくはおとなしくしていたのだが、近年になって、また悪い虫が騒ぎ始めた。なんとか、今からでも作家になれないだろうか? と、大変無様な悪あがきをしている。日々堅実に、額に汗して働く人々からすれば、鼻で笑えるだろう。
さらに追い打ちをかける事実として、創一には、恋人どころか、友だちと呼べる人間も、ほとんどいない。唯一、大学時代の同級生の一人が、今でも連絡をよこしてくれるため、ゼロではないのだが。
要するに、汎用的なスキルがない、役立たず。裕福でもない。社会性もないどころか、率先して放棄した。世間一般的には立派な負け犬であり、仮に本人にその気があったにせよ、ここからの一発逆転など、木に実ったリンゴが熟した時、空に向かって落ちていくようなものだった。
創一の目には、世界が灰色に見える。全てが味気ない。食事の味は分かるが、それとこれとは話が別だ。むしろ、何を食っても砂の味しかしなかった時期もあった。それに比べれば、今は、まだマシだ。
お伊勢さんへ、行こう。
甘さも香りも完全に失せた、あるいは最初から、そんなものなどないチューインガムを噛み続けるような日々の中、創一は、電撃的に思った。
元々彼は、信心深い性格をしている。なぜか? それは、実家が、節目ごとの法要などにはこまめであり、幼い頃から、僧侶の読経をどこか耳に心地よく聴いていたからかも知れない。もちろんと言うべきか、春と秋の彼岸には、墓参りを欠かさない。ゆえに、神仏を信じるか? と問われたなら、真面目に「はい」と答える。
とにかく、お伊勢参り。つまり、伊勢の神宮へ猛烈に行きたくなった。ところで、なぜ「伊勢『の』神宮」と、ワンクッション挟むのか? 簡単だ。あそこを「伊勢神宮」と言うのは通称。正式な名称は、「神宮」の二文字。他所の神宮と区別するため、鎮座する場所が必要だ。ゆえに、「伊勢『の』神宮」。公式ホームページを見れば、すぐに分かる。話を戻して、神を拝むのに、理由など要らないだろう。良しと見るか、悪しと見るかはさておき、創一には、脊髄反射レベルでの行動力がある。その脊髄反射が悪い方向に作用して、手痛い目にも散々遭ってきたのだが。仕事をしている施設でのカレンダーを見て、二連休になるタイミングで、実行に移すことにした。伊勢の神宮の、外宮と内宮のみに参拝するなら、日帰りでも可能な距離に住んでいる。だが、周辺の複数の別宮や、神社も回りたかった。そうなると、一日では足りないわけだ。ビジネスホテルを予約し、交通手段を確保した。また、参拝のルートも綿密に組み、いざ、その時を迎えた。創一の喜びは、自分の考えた「台本」通りに、物事が運ぶことだ。そんなことなど、まずありえないことなのだが、逸脱を楽しむ余裕など、ない。自分の部屋の片付けは面倒がってやらないのに、こういう所だけ、嫌に四角四面である。
創一は、常に素面である。だから、恐らく文学において最重要である、主に他者との関係性によってさざめく、心情の機微。それが、恐らく欠けている。先に触れた通り、社会的な関係性を、率先して放棄している。加えて、感情を発露させることに、すっかり疲れてしまってもいるのだ。だいたい、今現在立っているのが舞台なのは理解ができるにしても、観客がいない。だから、萎れてぐずるところに鞭打ってまで、心を動かす必要もないと考えている。いや、「共演者」が、「兼、観客」であるとも解釈できるが。では、より豊かな表現をするに当たって、過去の経験を元にすればいい、という声もあろう。だが、創一の過去はことごとく「ろくでもねえ」ものであるがゆえに、できない。やりたくもない。つまり、「瑞々しさ」という言葉からは、少なくとも、地球から月程度は離れているのだ。四方木創一という一人の主人公に対して、容姿はさておき、どういう人間であるのか? 喜怒哀楽の基準は? あるいは、哲学は何であるのか? 肉付けの努力はするつもりだが、早速不安になってきた。そもそも、「過去を封印し、社会性も放棄した、こどおじ中年男」というものに、ドラマ性を与えるのは至難の業だ。社会性を放棄した、と言うと、では、家族に対してはどうであるのか? という指摘もあるかとは思う。確かに創一にも、姉が二人いるし、父親こそ既に亡くなったが、母親がまだいる。ではあっても、やはり創一には、彼女らは「肉親という役を演じている役者」でしかない。母や姉と、そりゃあ確かに、普段は普通に話をする。しかし、やはり、「どこかの高み」から、創一は、自分を含めた全てを、他人事として俯瞰しているのだ。先手を打っておくが、この話は、別に、創一が破滅する話ではない。そもそも、読者にカタルシスを与えられるかさえ、怪しいものだ。では、何のために書かんとしているのか? 実のところ、それそのものが、創一にはよく分かっていない。単純極まりなく、まったくのふいに、己の内から湧いてきた「何か」を、書きたいから書く、という、極めて独りよがりであり、マスターベーション上等な姿勢である。カツオのような回遊魚が止まったら死ぬように、四方木創一という男もまた、書くことを辞めた時が、すなわち死の時なのだ。
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