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ただいまは、震フォニー
涼が玄関を開けると、暗闇が迎え入れた。いつもなら先に帰っている結衣の声がするはずだが、今日は何も聞こえない。靴を脱ぎながら、彼は「ただいま」と小さな声で呟いたが、部屋は無音のままだ。
リビングのドアを開けると、暗い部屋の中にソファがうっすらと浮かび上がる。そこで涼は息を呑んだ。結衣がソファに座っていたのだが、その表情が異様だった。彼女は目を見開き、無表情で前を見つめている。
「結衣…。何かあったのか?」
涼は不安を感じつつも、彼女に近づいた。しかし、結衣はまるでその場に固定されているかのように動かない。ただ、かすかに唇が動いた。
「ただいま…」
「今、なんて…?」
もう一度涼が問いかけると、結衣の声は少しだけ大きくなった。
「ただいま…帰ったの…」
その声は冷たく響き、涼は背筋に冷たいものを感じた。違和感を覚えた涼は、周囲を見回したが、何も変わった様子はない。だが、結衣の姿がどこか異様で、涼は目を離すことができなかった。
涼は意を決して結衣の肩に手を置こうとした瞬間、彼女の体が突然激しく震えだした。そして、まるで誰かに操られているかのように、結衣は立ち上がり、無機質な動きで涼を睨みつけた。
「涼…お前…」
結衣の声は深く、まるで別人のようだった。涼は後ずさりしながら、彼女の表情を見つめた。その顔は、いつもの優しい結衣ではなかった。目の奥に奇妙な光が宿り、まるで誰か別の者がそこにいるかのようだった。
「お前、誰だ…?ただいまって…言ったのはわたしだ…」
涼の心臓がドクンドクンと激しく鼓動し始める。何かが違う。これは結衣じゃない。言葉が荒すぎる。涼は声を出そうとしたが、喉が凍りついたように言葉が出ない。
そのとき、結衣が低い声で呟いた。「わたしのただいまはもう返ってこない…」
結衣の背後から影が伸び、彼女の体に絡みつくように動き始めた。涼は叫び声を上げようとしたが、その瞬間、彼の視界が暗転した。気づいたとき、涼は玄関の外に立っていた。
家の中からは、はっきりと聞こえる声がすしていた。
「ただいま…涼…」
しかし、それに返すことができなかった。涼は震えながら玄関を開ける勇気を失い、その場に立ち尽くした。
そして、静かな夜の中で、もう一度「ただいま」と囁く声が響き渡った。
部屋の中で交わされた「ただいま」はそれが最後だった。
結衣は、生きて呪われた。ただいまを繰り返す怨霊のように…。
ただいま…ただいま…
暗い囁きは続く。
ただいま… ただいま…。
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