山は微笑む

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「三時間、ですか」  彼の生まれ故郷は、特急を使っても片道にそれだけかかると言う。それでも、一日がかりだが日帰りも可能ではある。 「そのぶん景色はいいぞ」 「きっと、そうですよね」  その地名は行楽地や旅行先としてよく聞く場所だった。 「嫌なら無理しなくていい。元々俺が一人で行くつもりだったし、これきりって訳でもないから」  迷っているのは遠いとか嫌だとかではない。その日の夕方に以前から楽しみにしていたコンサートがあるのだ。それを彼に告げると、少し思案したあとに笑顔で言った。 「じゃあ、前乗りするか」  それは つまり… 相変わらず涼しい顔で大胆な提案をしてくる彼に、私はこのひと月というもの振り回されっぱなしだ。新藤さんは会社の上司だが、ひょんなことから一緒に食事をする日々を重ねて、この春から恋人になった。 かつての母ひとり子ひとりの住処(すみか)は、彼の母親が亡くなったあともそのままにされていた。失意のうちに法要を済ませるのがやっとで、この半年もの間、彼はずっと悲しみの底にいた。少しずつ食卓と生活を調(ととの)え、季節を分け合ううちにようやく笑顔が戻ってきた。 春の陽気に誘われるように心を(みなぎ)らせた彼は、遺されたものたちの行く末を考えるようになった。 『金目のものなんて何もないけど』  母親の気配が残る部屋に、足を踏み入れられなかったと言う。一人暮らしを始める彼に、レシピを記したノートを託すような(ひと)だった。早くに父親を亡くした彼にとって、彼女の存在は大きかったのだと容易に想像がついた。 『何か大切なものがあれば残しておきたい。愛紘(まひろ)が同じ女性の目から見てもらえると助かる』  駅の改札口を出ると、もう初夏に近い陽射しが私たちを出迎えた。 手をかざして光を遮り、広々としたわりに閑散としたロータリーを見回した。遠くの方に翠緑(すいりょく)に埋もれた山並みが連なり、青空にくっきりと映えている。 「朝早いと(うぐいす)とか郭公(かっこう)とかよく聞こえたな」 「思ってたよりものどかですね」 「車があれば買い物には困らない。都会から移り住む人も結構いるらしい」  バス乗り場へ向かう間に、新藤さんがぽつぽつと話してくれる。言葉の端々に故郷への誇りが感じられた。 この豊かな自然の中で幼い彼はどんな日々を過ごしてきたのかと、私は澄んだ空気に思いを馳せた。 時刻表は空白が多かった。 それでも、運よくさほど待たずにやって来たバスに揺られて、私たちは狭い国道を走り出した。片側一車線の道幅いっぱいにバスの車体が進んでいく。大型車両とのすれ違いは少しひやひやするほどの距離感だった。近づくトラックのバックミラーが窓越しに私の鼻先を掠めそうになる。ひゅっと緊張して顎を引くと、隣で笑う気配がした。 「そんなに乗り出すからだ」  子どもみたいな仕草を指摘されて少し恥ずかしくなった。 「山が綺麗で」 「ああ。標高も手頃だから登山客も多いんだ。この連休は混みそうだな」  まだ距離があるので人の姿は見えない。 枝ごとに少しずつ異なる色を持ち、(さざなみ)のような若葉の重なりが行楽日和と相まって清々しい。途切れ途切れの商店街の古びた建物の合間に、見え隠れしながら新緑が近づいてくる。  あ 不意に淡い色が目に映った。 郊外に出たせいで視界が開けて、カーブに沿った山の中腹に白い塊が見える。いや、薄桃色の… 「山桜だ。今年も咲いたんだな」  今、バスの窓から二人で同じ景色を見ている。彼の声に嬉しさが滲んでいた。 「家はあの桜のすぐ下だ」 「素敵な目印ですね」  『山笑う』とは春を表す言葉だ。木々が一斉に芽吹き、花が綻ぶ。今の時期は少し過ぎているが、その桜の柔らかさは強いて言えば『微笑む』だろうか。彼の母親が生きていたら花びらの雪をかぶりながら、今頃は私たちの到着を首を長くして待っていたに違いない。 「会って、みたかったです。お母さんに」  思わず言葉がこぼれた。 「ありがとう。もう少し歳をとったら呼び寄せるつもりだったんだ」  それは息子の親孝行でもあった。 「でも、墓があるから父親のそばにいたいって言われたよ」 「仲が良かったんですね」 「そうも見えなかったけど。一緒に暮らしてても、夫婦のことは子どもにも分からないものだな」 「そうですね」  彼の微笑みに、私は口元を緩めた。 「あっ…」  バッグを探っていた彼が、珍しく慌てた声を上げた。 「どうしたんですか」 「いや、ちょっと忘れ物…」  落ち着かない様子で平静を装う。 「何をですか。どこかで買い物しますか」 「いい」  急に憮然としてファスナーを閉めた。口元を手で隠すようにしてシートに凭れる。 隣に座るようになって様々な彼の表情を知った。張り詰めていたものが(ほど)けて、仕事中の少し近づきがたい凛々しさともまた違う。思ったよりも柔らかい空気感に私は安堵を覚える。 「誰かと旅行なんて、久しぶりだから」  言い訳するように呟いて、彼はまた黙り込む。  自惚れてもいいのかな 私との旅行が楽しみだったって。 仕事では隙のない彼が、忘れ物をしてしまうくらい浮かれていたって。 窓の外を見ると、さっきの山桜が翡翠を背に優しく微笑んでいて、慈愛に満ちた穏やかな顔がそこに重なる気がした。 本来の自分を取り戻した息子を迎えるかのように。
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