さよなら前世

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早川順子は十六の時に自分は二十六までしか生きられないだろうと考えた。 順子は健康そのもので持病の類は一切なかったが、それは漠然とした確信だった。 どうしても二十六になる自分、というのが想像出来なかったのだ。 若気の至りと言ってしまえばそこまでだが、順子は二十五の時に知り合った男性と結婚し、小川順子になった。 その時順子はあぁそういうことか、と腑に落ちた。 早川順子としての人生は二十五でお終い。 二十六からは小川順子の人生が始まったのだ。 つまり順子の確信は一応当たらずとも遠からずだったということになるのであろう。 そして結婚して半年、妊娠をした順子の人生は娘の誕生と共に激変した。 娘を産んだ時、順子は二十六歳だった。 育児に対してあまりにも無知だった順子は赤ん坊という生き物はおっぱいを飲む以外はずっと寝ているものだとばかり思っていたが、娘は癇が強くて四六時中泣いてばかりいてろくに眠らない赤ん坊だった。 朝になったら起きて夜になったら眠る。 そんな当たり前の生活から突然弾き出された順子はとにかく無我夢中で我が子を死なせまいと眠気と疲れで意識が朦朧とならながらとにかく必死で子育てをした。 子供中心の生活になり、癇癪を起こして泣き喚くのでスーパーへ行くのも一苦労。 順子は結婚前の友人知人とも没交渉となり、やがて結婚前の自分を前世の記憶のように遠くに感じるようになった。 娘と夫の世話と家事。 それが順子の生活の全てだった。 順子の一日は大抵娘の泣き叫ぶ声で始まったが、時々娘より早く起きると順子は自分の隣に赤ん坊が眠っていることに驚いて飛び起きた。 寝起きは前世の記憶と今生の記憶が混濁しやすく、順子はしばしば混乱した。 それは夫に対しても同じだった。 激務で朝は早く夜は深夜に帰宅する順子の夫は育児にはノータッチでタイミングが合わなければ三日、五日会話をしないことも珍しくなかった。 そんな夫が休日に昼寝をしていると順子はその寝顔を見て思うのだった。 この人は誰かしら。 どうして私の家にいるのかしら。 その不思議な感覚はなかなか抜けず、順子は暫し困惑したが、やがて結婚とは、家族を作るということはそういうものなのだろうと自分で折り合いをつけた。 瞬く間に日々は過ぎ、娘は三歳になった。 ようやく朝まで寝てくれることも増え、本日の寝かしつけを終え、ほっと胸を撫で下ろした順子は玄関で鍵が開く音と「ただいまー」という間延びした声に心底ぞっとした。 「おかえりなさい」 やっぱり私は、二十六で死んでおくべきだったのかもしれない。
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