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 ある晩、仕事を終えて夜道を歩く男は、ふと立ち止まって自身を照らす月を眺めた。    月は、深い藍色の夜空に、ぼんやりと薄黄色に浮かんでいる。  真っ暗なはずの夜を、月は無数に輝く星々と共に、賑やかした。  しかしながら、この度男が月を眺めたのは、そんな豊かな感受性や感傷的な気分のためではなかった。    月に、鼻と口ができていたのである。  正確に言うと、月面に、人間の顔にくっついているような鼻と口の形の盛り上がりができていて、月の少し欠けているのと同じ側に、真っ黒な影を落としていたのである。  男は、自分の目がやられたのだと思い、目を擦り再び見つめてみるが、やはり、明らかに鼻と口がある。  男は全く不思議なことだと思ったが、連日の残業でやられたのが、目ではなく頭と心なのではないかと考えて、自身が随分と疲れているのだと知った。 男は少々いやな気分になったが、その日はそのまま家に帰って寝てしまった。     翌日、男は久々の休みであったため、のんびりと昼頃に起きた。 昨日の晩のことなどすっかり忘れて、ベッドで仰向けになっていたのだが、ふとスマホを開くと、様々なネット記事が、月面に起こったその奇妙な現象について書いていた。  男はあれが幻覚ではなかったことに少々驚いたが、ひとまず、己の精神状態がまともであることに安堵すると、久しぶりにテレビの電源をつけた。  するとちょうど、どこかの専門家が、それについて話している。   「今までも、微小な小惑星の衝突などにより、月面の状態は多少の変化があった訳ですが、このような大規模な変動、というものは、その昔、月が地球から分裂して誕生してからはほとんどなかった事例です。」   白衣を着て、白髭を蓄えた年配の男がそういうと、番組のキャストが尋ねる。   「やはり、皆さん気になっていると思うのはその形状であると思うのですが、何か理由があったりはするのでしょうか。」   「いえ、これが人間の鼻や口に見えるというのは全くの偶然で、いや、それよりもですね、我々はずっと、月の内部というのは冷え固まっていると考えていたのですが、ここまでの地殻変動を起こすための液体岩石の対流が……」    男は小難しくなった話に飽きてテレビを消した。  まあ、構うまい。  月に鼻や口がつこうとも、地球に耳や髭が生えようとも、明日も仕事があるのである。 男はそう考えると、憂鬱な明日をなるべく思い起こさないようにして、再び眠りについた。  翌日、男はまた残業を終わらせて家路についていた。  職場でも、その月の話題が少し出ていたが、多方、そんなに気にする様子もなく、皆淡々と仕事に取り組んでいた。    男はネクタイを緩め、歩きながら満月になった月を眺める。  鼻と口がついて、確かに前よりか不格好であるが、それ以上なんだという話である。    しかし、男は、月の「口」の部分が僅かに動いたことに気がついた。  それは、男の瞬きによって作り出された錯覚のようなものにも思われたが、よくよく見つめてみると、やはり少しづつ動いているのである。  何か短い単語を、ゆっくりと繰り返し呟いているような規則的な動きをしていた。 男は月の口の動きに合わせて唇を動かしてみたが、なんの理解も出来なかった。 また翌日も、さらにその翌日も、男は帰り道をコツコツと歩きながら、または、会社の窓から、コーヒーを飲みながら月を眺めた。  職場では、これはマヤの予言がどうであるとか、ノストラダムスがなんだとかいう話を耳に挟んだが、男はあまりそういったものに興味はなかった。  しかし、その代わりに男はいくつかの月の特徴を見つけていた。  まず、前に比べて二回りほど大きくなっているのだ。  次に、月の口角は若干つり上がっていて、どこか嬉しそうな、不気味な笑みを浮かべているのである。  そして何より、満月になってから数日経つのに、全く欠ける様子がない。  まるで、今まで太陽に照らされるばかりであった月が、自我を持って輝きだしたようであった。  男は、いよいよ奇妙だと思いながらも、毎晩ながめるこの月の様子が、一日のささやかな楽しみになっていることを自覚していた。  またしばらくして、男にもしばらくぶりの休みがやってきた。  家の小さなベランダから眺める月は、本来より随分大きくなっていた。  そして、それに加えて最近は、真夜中に静かな場所で耳を澄ますと、何かうねりのような、低い低い、月の『声』とでも言うべきものが聴こえるようになっていた。  何と言っているのかは聞き取れなかったが、男はこれに、どうにも神秘的なものを感じずにはいられなかった。 男はなけなしの貯金を切り崩し、60センチほどの望遠鏡を買った。  今晩はこいつを使って、月の様子を見てやろうと考えた。     夜、男は車を走らせると、人と灯りの少ない山奥へと向かう。  男は、目的の展望台について車のドアを開けると、唖然とした。 月は、つい二、三時間前、家から見た時と比べて、何倍も大きくなっていた。  それは、白く輝くその巨体の一部を山に隠しながら、やはり微笑んで、より鮮明に見える口をゆったりと動かしていた。  そして、少し前まで微かに聴こえるばかりであった月の声も、今や草むらをざわめかせ、木々を揺らし、風を作り出していると錯覚するほどの大きさになっている。  月の、荘厳で雄大な姿と、その大波のような質量を持った声に圧倒され、男は狼狽えた。  しかしながら、男は倒れないように踏ん張ると、ようやく判明するであろう月の声の意味について、非常に期待した。    男は、全神経を耳に集中させる。    『……い……ま……。 た……だ……い……ま……。』  月は、ゆったりと、しかしはっきりとそう言った。       しばらくの間、男はどういうことかと困惑して立ち尽くしていた。    しかし、男は気がつくとはっとして、とにかくここから逃げなければならないと思い、慌てて車に飛び乗って、震える脚でアクセルを踏み込んだ。  残念なことに、もう遅かった。      約45億年前、巨大隕石の衝突によって地球から弾き飛ばされた塵は、その衛星軌道上で纏まって月となった。  そして今、その塵の塊は45億年ぶりに再び母星に接近し、間もなく一体となることを、礼儀正しくも、喜びをもって母なる地球に伝えていたのである。          
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