離婚するつもりだった。

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 夫が帰ってくるらしい。  遺族年金のあてもなくなったいま、チェリーは用無しの妻であって、本来ならさっさと屋敷を立ち去るべきなのだろうが、いかんせん庭で茄子とトマトが育ちすぎていて、置いてはいけなかった。  書類上の結婚は済んでいるので、一度本人に会って離婚もしなければならないのだし、と自分に言い聞かせる。  ぐずぐずしているうちに、時間は流れていった。 「この茄子とトマトを売れるだけ売って、ミンスパイの材料を買ってきます」  今日明日にでも兵士が帰ってくるのでは、と町で噂が出始めた頃、チェリーは屋敷で唯一のメイドに声をかけた。返事は「ぼっちゃんはミートパイですよ。奥様とお嬢様はときどき適当なことを言いますから」と言われた。  どちらが本当のことを言っているかわからなくて、両方作ろうと決めて市場に向かった。  その日はとても天気が良く、市場は妙に活気にあふれていた。  耳に飛び込んでくる人々の話によれば、駅についた列車から何人か兵士たちが下りてきたらしい。 (バーナードさんは最前線まで行っていたはずだから、もう少し遅いお着きよね)  慌てることはないわ、と思いながらチェリーは茄子とトマトを露天に並べた。ものの見事に飛ぶように売れた。誰も彼もが浮かれた空気だった。  小銭で膨らんだ小袋を持ち、今度は自分が買い物をしようと辺りを見回したチェリーは、装飾品の露店の前でぼんやりと佇んでいる兵に気づいた。  それは、安っぽい作りの櫛やネックレス、指輪の並ぶ店である。  くしゃくしゃで埃っぽい金髪の青年は、見ているのか見ていないのか、とにかく気の抜けた様子で立っていた。  戦場から日常に戻ってきて、まだうまくこの世に魂が馴染めていない様子だ。  チェリーは思い余って、すぐそばまで歩み寄り、声をかけた。 「何かお探しですか?」  青年は、翠の瞳でチェリーを見下ろして「指輪……」と呟いた。 (あら、きっと帰りを待つ女性がいるのね)  久しぶりに会うのに、お土産が欲しいのだろう。  微笑ましい気持ちになりつつも、青年の様子が気になって「相手の方のお好みは?」とさらに踏み込んで尋ねてみた。 「聞いたことがない。何も知らない。君が選んでいい」 「そんな」  できませんよ、という言葉を呑み込む。 (本人が選べないから、頼まれているのよね。ここで私が断ったら、このひとずーっとここから動かないかもしれない)  チェリーは端から品物を眺めて、気に入ったひとつを見つけて「あれが良いと思います」と言った。 「ありがとう。助かった。君はとても良い人だ」  青年は大げさな感謝を口にしながら、懐に手を入れてくたびれた革の財布を取り出す。  ひらりと一枚紙が落ちて、チェリーの靴先にたどりついた。「あっ」と慌てた青年の声を聞きながら、チェリーはそれを拾い上げる。  黄ばんで汚れてよれよれになったその紙には、何やら見覚えのある字が書かれていた。 「ああ、ありがとう。それ、妻からの手紙なんです。戦場でずっと持っていたんですよ。離婚した方が良いんだろうなって思っているうちに本当に離婚を切り出されて、でも生きて戻ってきてもいいって。だからとにかくまず会って話そうと。いま全然手持ちがなくて何も買えなくて、本当は食べ物の方が喜ばれるかなって思ったんですけど、どうしても彼女に贈り物がしたかったんです。どうだろう、やっぱりいらないかな。でも、せっかくあなたが選んでくれたので指輪買ってきます」  固まったままのチェリーにまくしたてるだけまくしたて、青年は店主に声をかけて指輪を買う。それからついでのようにブレスレットも買って、チェリーに差し出してきた。 「これはあなたに。親切にしていただいたお礼です。せっかく戦争が終わったので楽しく暮らしてください。あっ、でもいらなかったら売ってもいいですよ。というかいらなかったですか。食べ物の方が良かったかな」  悩み始めたので、黙っていては話がこじれそうだと思い、チェリーは潔く「ありがとうございます」と言ってブレスレットを受け取った。  青年はとても嬉しそうに微笑んで「親切な方に会えたので気持ちが軽くなりました。俺は妻がいる身なので食事に誘ったりはしませんが、あなたにこの先、幸せなことがあると良いなと思います」と言ってきた。  何から彼に伝えるべきなのか。  どう名乗れば伝わるのか。  短い間に悩み抜き、チェリーはひとまずずっと聞きたかったことを聞いてみることにした。
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