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靴下
靴下が片方ないことに気づいたのは、実家に着いてからだった。
ずぶ濡れの靴下を、たまたまカバンに入っていた予備のものと履き替え、リュック脇のメッシュポケットに入れておいたはずだったが、どこかに落としてしまったようだ。
あの山で落としてきてしまったのだろうか。
先ほど起こったばかりの不思議な出来事が、今も頭から離れずにいた。
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これはまさか、流行りの異世界転生?
一面に立ち込めた霧に一瞬そんなことを思ったが、改めて周囲を見渡したところで、先程立ち寄った山麓の神社の境内だと気づいた。
目の前には知らない女の子が立っている。
見た感じだと小学校の四~五年生くらいだろうか。
長い髪を一つに縛り、小綺麗な格好をしている。
状況の飲み込めていない私に向けて、女の子は唐突に話し出した。
「私は、いい判断だったと思いますよ。」
「え…?」
「仕事、辞めて正解ってことです。」
なぜそんなことを知っているのだろう?
私は、一人で登山に来ていた。
仕事を辞めたのは、昨日。
職場の人間なら知っていてもおかしくはないが、職場以外の他の誰ともその話はしていない。
職場の誰かの子どもだろうか?
頭に疑問符ばかりが浮かんでくる。
そもそもなぜ私がここにいるのかが分からない。
私はとうの昔にこの神社を後にし、山に登っていたのだから。
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アパートを出る時に見た天気予報には、傘マークがついていた。
登るのはいわゆる低山。
多少の雨なら何とかなるだろうと鷹を括っていた。
雨の予報の出ている山に人影はなく、山頂までの道中も、下山途中も、誰ともすれ違うことはなかった。
登り始める前から雲行きが怪しかったが、下山途中でとうとう雨が降り出した。
あっという間に土砂降りへと変わった雨に、山を舐めてはいけないと改めて思い知らされた。
それでも、風が強くなってきている中で尾根伝いのその道に立ち止まっているわけにもいかず、ぬかるむ道を慎重に下った。
一瞬の油断。
あっと思った時にはもう、私の視界は森の風景から一転、降りしきる雨と曇天の空へとスライドし、そしてそのまま暗転した。
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目の前の少女の「辞めて正解」の言葉に、ここ数日の出来事がフラッシュバックした。
この春の異動で、上司が変わった。
私が勤めていたのは世間一般では一流企業と呼ばれているような会社だったが、歴史がなまじ長いがために、所々に古くからの悪しき慣習がまだ残っている部分があった。
女性社員を軽視するような昭和のような風潮もまだ残っており、嫌な思いをすることも多かった。
それでも、周囲から羨ましがられるような給与とネームバリューが得られるということで、春までの二年間は何とか働いてきていた。
この春移動してきた上司は、私とは壊滅的に馬が合わないようだった。
他の男性社員と私とであからさまに態度が違う。
女性軽視どころか女性蔑視と言ってもいいような態度だったが、悔しいことに仕事はよくできた。
会社に多くの利益をもたらすその上司は、性格に多少難があっても社内では黙認されていた。
ストレスを抱えながら、それでも何とか三ヶ月頑張ったが、心も体ももう限界だった。
仕事を辞めて私に残されたのは、わずかな貯金と、アパートの中の細々とした家具やその他諸々だけだった。
とりあえず一度実家に帰ろう。
そう思い、帰り支度をしていたところ、ふと以前父が話していた言葉が頭に浮かんできた。
「あの山には神様がいるんだ。
ホントだぞ。」
私がまだ幼かった頃、父が職を失って苦しかった時に起こったという不思議な体験の話をしてくれた時の言葉だった。
父はバブルで一度職を失った後に再就職し、今もまだバリバリ働いている。
私は小さかったのでよく覚えていないが、随分な苦労をしたようで、母とその頃の思い出話をしているのを実家で何度も聞いたことがある。
今の私の境遇が、そんな父とどこか重なって感じられた。
実家に帰る前にこの山に登ってみようと思ったのは、ただの気まぐれだった。
結局この子は誰なんだろうと訝しむ私をよそに、彼女は続ける。
「私はお姉さんの知り合いじゃないですよ。
全くの初対面だから安心して下さい。」
ちっとも安心できない前置きをしてから、そのまま先ほどの「仕事を辞めて正解」という言葉の続きを話しだした。
「お姉さん、あのまま続けてたら確実に心を病んでたでしょ。
知ってるかもしれませんが一度病んでしまった心はそう簡単には元に戻りません。
そういう意味では、お姉さんは自分自身の心を救ったんです。
結局、自分の居場所に違和感を感じた時にやれることは、そこに居続けるか、居場所を変えるかの二つしかないんです。
その場所で感じた違和感と折り合いをつけながらやっていけない以上、変化を恐れないで居場所を変える、つまり新しい環境に飛び込むしかないってことになります。」
勢いよく喋るその様に、引き込まれるように聞き入ってしまう。
「大事なのは、自分自身の心の声に耳を傾けること。
本当の自分がどう感じていて、どうしたいのかってことです。
心が苦しいって言っているサインを絶対に見逃しちゃダメです。
自分を守ってあげられるのは自分しかいないんだから。
そういう意味では、お姉さんの決断は、なかなかの英断だったと思いますよ。」
そこで彼女はようやく言葉を止め、一息ついた。
この子は一体何者なんだろう?
心の中を見透かされているような感じがするのは何故だろう?
「あ、何で自分のこと何でも知ってるんだ?って思ってますね?
ここ、どこだか分かります?
お姉さんの夢の中ですよ。
だから何でも分かっちゃう。
ただそれだけですよ。」
そこでようやく、ああ、これは夢なのか、と意味の分からない状況に納得し、私は少し安心しながら言葉を発した。
「でも、私が辞めたせいで他の人に皺寄せがいってると思うと申し訳なくて…。」
「お姉さんはちょっと真面目すぎますね。
お姉さんが一番に心配するべきは、自分自身です。
他にお姉さんを守れる人なんていませんからね。
お姉さんが自分を心配するように、他の人のことは他の人自身が心配すればいいことです。
気にすることなんてないんです。」
彼女はさらに続ける。
「お姉さんの人生は、お姉さんだけのものです。
言ってみれば物語の主人公みたいなものですかね。
で、物語を作り上げるのも全部お姉さん。
ストーリーも結末も全部お姉さんが選ぶんです。
志半ばで非業の死を遂げるバッドエンドにするか、念願かなって最高に幸せなハッピーエンドにするか、全部自分が決めて生きていくんです。」
自分が主人公?
いやいや、そんなこと言ったら他の人たちはどうなるのよ?
みんな脇役ってこと?
そんな訳ないわよね?
口に出そうとすると彼女はそれも見透かしたように続けた。
「他人は他人で、それぞれが主人公の物語を生きてます。
だからそれぞれが決断して行動します。
他の人にどんな事態が待ち受けていようが、それはお姉さんが心配するようなことじゃないんですよ。
だってお姉さんが代わりに決断してあげたり行動してあげたりなんてできないでしょ?
お姉さんはお姉さんで、他人の心配なんかせずに自分の信じる道を行けばいいんです。」
そこまで言って一息ついてから、最後にこう言った。
「だからと言って自分勝手に何でもしていいということではないですけどね。
お姉さんなら分かってると思いますが、他の人のことを思いやるのももちろん大切です。
でもまずは、自分自身を一番大切にしてあげてくださいっていうことです。」
それだけ言うと、彼女はふいに頭上を見上げ、それから笑みを浮かべた。
私もつられて空を見上げる。
霧が晴れ、雲の切れ間から太陽の光が差し込んでいた。
眩しさに思わず目を閉じる。
「お姉さんなら、大丈夫。」
彼女の声が耳にこだました。
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再び目を開くと、私は大きな木の根元に仰向けに倒れていた。
木の隙間から青空と太陽の光が見えた。
体の節々が痛かった。
転倒した際、登山道をそのまま滑り落ち、滑落する直前で、この木にぶつかって気を失ったのだろう。
ゆっくりと立ち上がる。
痛みはあるが大きな怪我はなさそうだ。
私は、つい先ほどまで見ていた夢を思い出していた。
あの少女は何者だったのだろう?
外見は少女だったが、全てを達観したような何ともいえない雰囲気があった。
父が言っていた神様だろうか?
それとも私の頭の中で作り出された妄想?
考えてみても分かるわけはないが、私の判断を正解だと言い、私の心を救ってくれたのは確かだ。
もしかしたら、私が滑落せずに命が助かっているのもまた彼女のおかげなのかもしれない。
私は勝手に、神様に会ったということにしておくことにした。
雨が止み、先程までの状態よりは多少マシになっているとはいえ、道はぬかるみ、依然として麓までの道のりは前途多難だ。
まるで私の現状を映しているかのようだ。
そんなことを思いながら、一歩踏み出すために体勢を整える。
今がどん底。
道のりは前途多難。
さあ、ここからが盛り上げどころだ。
私が描く、私だけの物語。
私は笑顔でハッピーエンドに向けた第一歩を踏み出した。
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