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【靴】
早朝五時の神社に人の気配はなかった。
神社の後方には崖があり、入れないように柵がしてある。
当たり前だが、神社とは神様が座す場所だ。
登山道の入り口に位置し、登山に来た人の多くがそこで神様に挨拶をしてから山を登り始める、そんな神社。
数十年ぶりにその神社の入り口の鳥居をくぐりながら、子どもの頃に父に連れてこられた時のことを思い出した。
当時、そこにあった遊具は、今はもう残っておらず、代わりに新しい遊具が設置してある。
お社の前で手を合わせる。
目を閉じ、妻と娘の今後の人生について、どうか不自由のなく平穏なものでありますようにと願う。
そう願いながら、今から自分がいなくなるという矛盾を思い、胸が苦しくなる。
バブル崩壊の煽りを受けて会社が倒産した。
どこもかしこも不景気で、自分のような何の取り柄もなく、ただ会社に雇われていただけのような男には、おそらく再就職先の見つかる当てなどないだろう。
まだ幼い娘、新築で長いローンの残った家、娘を育てるためにキャリアを捨て、家庭に入った妻。
もう、自分の保険金を当てにする以外に方法はないように思われた。
閉じていた目を開き、神社の後方に回り込もうとして神社の脇の道に目を向けると、そこに女の子が立っていた。
驚いて声をあげそうになった。
いつからそこにいたのだろうか?
十歳くらいに見えるその少女は、小綺麗な服に身を包み、微笑みながらこちらを見ている。
その顔には、どこか見覚えがあるように感じた。
遠い昔、それこそ子どもの頃に会ったことがあるような、懐かしい感覚。
もしかして誰か知り合いの娘だろうか?
少女の唇が開く。
「おはようございます。」
咄嗟に返事をする。
「あ…おはよう…ございます。」
少女は続ける。
「おじさん、死ぬつもりでしょ?」
一瞬にして動悸が激しくなるのを感じた。
慌てて取り繕う。
「な…何を言ってるんだ?どうしてそう思った?」
「こんなところにこんな時間に、明らかに山に登る格好じゃないおじさんが一人でいるなんておかしいじゃない?
それに、そんな表情をしてれば誰だって分かるわよ。」
慌てて自分の顔に手をやる。
だが、顔に触れたところで自分の表情がわかるわけがない。
まずいことになった…。
保険金を得るためには、私の死はあくまで事故死でなくてはならない。
自殺ではダメなのだ。
この少女が、後々余計なことを言わないとも限らない。
そうなると私の計画が狂ってしまうことになる。
そして.そうなった頃には私はもうこの世にはいないので、一切手出しができない。
焦る私とは裏腹に、少女は続けた。
「こんなところで死なれたら迷惑なのよね。
おじさんは何で死のうと思ってるの?」
そんなことを言う必要がないのは百も承知だったが、何故か、話してみてもいいかなという気がした。
私は彼女に、事の経緯を説明した。
家族には、会社が倒産したことはまだ話していない。
こんなことを話すことができるのは、赤の他人だからなのだろう。
一通り話を聞き終えた後、彼女は言った。
「ふーん。どうしようもないわね。」
相手は子どもではあったが、自分の事を分かってもらえた気がして少し嬉しかった。
「そう。お金が降って湧いてくるわけでもないし、もうどうしようもないんだ。」
そう言った私に、予想外の返事が返ってきた。
「違うわよ。お金のことなんか知らないわ。
私が言ったのはあなたのことよ。」
何を言っているのか分からずにいる私に、彼女は続けた。
「まあ、会社が倒産したのは事実でしょうし、辛いのは分かるわ。
でもあなたの話を聞いてると、他はぜーんぶあなたの予想でしかないじゃない。
仕事なんか見つかりっこない?
あなたが失業したと分かったら家族は困るに違いない?
自分が死ねば家族が助かるに違いない?
勝手に決めつけてばっかりじゃない。
仕事探しはしてみたの?
家族に話は?
夫に何も相談されずに勝手に死なれた後の妻の気持ちとか、父親が突然死んでしまった後の娘の気持ちとか、考えたことある?」
彼女の言い分も分からなくはなかったが、この年で職探しをしても簡単にうまくいくとは思えない。
「でも、やってみてもダメかもしれないじゃ…」
言葉を遮り彼女は続ける。
子どもとは思えない迫力。
「ダメかもしれないわね。
でも、何とかなるかもしれない。
それはやってみないと分からないじゃない。
たとえダメだったとしても、次またチャレンジすればいいのよ。
やらないうちから決めつけて諦めて、カッコ悪いったらないわ。
あの頃の、何にでもなれるって自信満々で未来を夢見ていたあなたはどこに行ったのよ。」
最後の一言にハッとした。
私はこの少女に会ったことがある。
子どもの頃、父に連れられて山登りをした帰り、少し遊具で遊びたいという私を残し、父は先に駐車場に荷物を置きに行った。
その時、会ったのがこの少女だった。
彼女が誰なのかは分からなかったが、そこでしばらく一緒に遊んだのを覚えている。
その時も、今回と同じように、いや、今回以上に色々な事を話したように記憶している。
学校での話や、将来の夢の話など、およそ初対面の相手に話すことではないようなことまで話をし、盛り上がった。
父はなかなか戻ってこなかった。
少しでも長く遊べるようにと、先に車で荷物の整理をしてからゆっくりと戻ってきたのだ。
彼女は、父が戻ってくる前に、会った時と同じように不意にいなくなった。
どうしてそんな印象的な出来事を忘れてしまっていたのだろう?
いったいこの子は、誰だ?
混乱する私に向け、彼女は言う。
「一寸先は闇って言葉、知ってる?
あの闇って、良からぬ出来事っていう意味じゃないのよ。
ただ、闇の中は見えないから何が待ち受けているか分からないってだけの話。
その闇の中にあるのは、絶望なのか希望なのか進んでみなきゃ分からないってわけ。
もっと言うなら、そこにあるのが絶望か希望かを決めるのはあなた次第でもあるわ。
あなたがどういう気持ち進んでいくかで、未来なんかいくらでも変わっていくのよ。
この世の終わりみたいな顔してないで、やれるだけやってみたらいいのよ。」
彼女はそれからニコリと笑い、最後にもう一言つけ足した。
「大丈夫。あなたなら大丈夫。」
それから彼女はふいに、私の後方に目をやった。私もつられて振り向くと、遠くに登山者らしき姿が見えた。
もう登山者が来てしまったのか…計画は失敗だ…。
そう思いながら顔を正面に戻すと、彼女はもう消えていた。
不思議と、死のうと思っていた気持ちはどこかに行ってしまった。
私はどこかスッキリとした気持ちで、再びお社に向かい手を合わせた。
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その後、私は自殺のカモフラージュのために履いていた登山靴を車で履き替え、神社を後にして、降り出した大雨の中を車を走らせて家に帰ってきた。
登山靴が片方ないことに気がついたのは家に着いてからだった。
履き替えた時にそのまま車の外に置いてきてしまったようだ。
妻に全てを話し、「また必ず仕事を見つけるから」と伝えると、妻は笑顔で「何とかなるわよ。これもあるしね。」と、箪笥の中から通帳を取り出してきた。
見ると、結構な額が入っている。
「いざという時のためのへそくりよ。」
そう微笑む彼女の顔を見て、全身から力が抜けていくのを感じた。
本当に死ななくて良かったと思った。
あの少女の、「大丈夫。」という言葉が脳裏に蘇った。
一寸先の闇の中には希望があった。
落としてきた靴は、またいずれあの神社を訪れるための口実ということにしておこう。
いずれにしても帰り道の大雨でおそらくもう履ける状態ではないだろう。
彼女は一体何者なのだろうか?
あの神社に祀られている神様だろうか?
それとももっと別の何かだろうか?
またいずれ、会える日が来るだろうか?
もしまた会えるのなら、その時には子どもの頃と同じように、胸を張って笑顔で会いたいと思った。
その時まで、彼女に救ってもらったこの命を大切にし、全力で生きてやろう。
一寸先の闇の中にある希望を探しながら。
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