本編

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***  史津の体調は転がり落ちるように悪くなり、海へ行った二日後には起き上がれなくなった。熱が上がったり下がったりして、一切食べ物を受け付けず、寝ていた。 「行ってらっしゃい。気をつけて」  仕事に行くとき、ひらひらと手を振っていた。 「お先に失礼します」  上がりの時間に立ち上がると、深尾の隣の席の先輩から飲み会への参加について声をかけられる。 「すみません、今日はちょっと」 「最近帰るの早えーな。ついに女か」 「いえ、そういうわけじゃ」  否定している時間も惜しく、鞄の持ち手を持った。  肩をぐっと掴まれ顔を寄せられる。 「羽須美ちゃんからの誘い断ったんだって?」 「……はい」 「長島さんとは上手くやった方が良いぞ」  その忠告を理解できないわけではないが、納得はできなかった。  羽須美というのは上司の長島の娘で、三ヶ月程前からパートとして同じ職場で働いている。その羽須美から好意を寄せられており、食事に誘われ一度だけホテルにも行った。  しかし付き合っているわけではなく、羽須美は大学の頃の先輩に想いを寄せており、その話をよくしていた。深尾はただそれを聞くだけだった。 「そうします」  昔からそうだった。 「深尾くん、今日も行かないの?」  出入口で呼び止められ、足を止める。羽須美が拗ねるような顔で深尾を見ていた。 「用事がある」 「最近付き合い悪くない?」  勝手に寄ってきては、自分のものだと主張される。  学生の時と同じだ。 「家に病人がいる」 「え」 「だから通してくれ」  なにそれ、と呟く声は深尾には届かず、そのまま会社を出た。  家に帰ると玄関が暗かった。電気をつけて部屋に入る。リビングに人の気配はなく、そのまま寝室へ向かった。静かに扉を開き、そのベッドに横たわっているだろう史津の姿を目で探した。 「シヅ?」  毛布は剥がれ、ベッドにもその横の布団にも史津がいない。体調が悪くなってからはずっと史津をベッドに寝かせていた。  トイレにも風呂場にもキッチンにも居らず、深尾は玄関の靴を見た。一足無くなっている。  鍵は閉まっていた、ということはどこかへ買い物に行ったのかもしれない。そう考えながらも不安ばかりが脳裏を走る。あのふらふらした足取りでどこへ買い物に行けるというのか。  サンダルに足をつっかけて、深尾は外へ出た。嫌な予感を抱えながら、家のポストを見れば、そこに渡した合鍵がころりと入れられていた。  悲しさと悔しさが湧いた。  その鍵を掴んで周辺を歩いた。コンビニやスーパーの全てを覗く。どこにも居ない。地元に帰ったんじゃないか、と立ち止まって考えた。  もう、あの頃みたいにどこにも行けない人間では無いから。  無意識に駅へ足が向く。その途中に通りかかった公園のベンチに目を向けた。  細い身体を腕で支えて座っているような状態で、史津はそこに居た。 「シヅ」  声をかけるとパッと深尾を見る。涙を湛えた瞳がきらりと光った。立ち上がって反対側へ歩いていこうとするその身体ごと捕まえる。 「あたし、あたしもう」 「帰ろう」  腕の中で史津は小さく首を振った。  初めて深尾の家に来たときも細いと思ったが、その比でないくらい細く軽い。その事実を嫌というほど突きつけられる。 「じゃあ病院に行こう」  それにも首を振る。体調が可笑しいのは重々承知していた。何ならこのまま抱えあげて連れて行くことは造作もない。  泣いているのかと思い、顔を覗くと不安に揺れる瞳が見えた。 「あたし、出てくよ」 「あ? なんで」 「この前の休日、女の人が来た。ミオの彼女でしょう? 無視続けるならお父さんに言うって」 「それ、出たのか」 「ううん。居留守使ってたら、その人が言ってた」  溜息を深く吐く。間違いなく、羽須美だ。休日のちょうど深尾がいない時間に訪ねてきたらしい。  その日の内に言えば良いものを、史津は自分の中で捏ね固めてこんなことをする結果に。 「それは、相手が勝手に言ってるだけだ」 「高校の頃ならそれで良かったけど、今は違う。もうずっと深尾に迷惑かけて」 「もう辞めようや、この会話。堂々巡りだろ」  同じことを史津も思っていたのだろう。黙ってしまった。深尾は手を引こうと腕の内側に触れる。殆ど骨のそれを柔く持ち、握った。 「まだ深尾は地獄から這い上がれるよ」  史津の言葉にふ、と失笑した。 「人殺しといて?」  その言葉に史津は口を開く。 「あたしがやったことだから。お願い、棄てた場所教えて」 「忘れた」 「嘘。そんなの、ずるい」 「俺はずっとずるいよ。こうやってお前をどこにも行けないようにしてる」  再度首を振った。何も否定出来ていない。 「言ったろ。同じ地獄に落ちてくれ」  あの頃はたくさんあって迷い放題だった道も、今はもうひとつしかない。それならば、落ちたときに逸れないように手を繋ぐしか術は無い。  史津の手を引っ張るとゆっくりと着いてきた。
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