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置きっぱなしになっているゴミ袋が視界に入って、ああまた可燃ゴミの日を逃したなと思う。殴られた後の朝はずっと起きられなくて、大体遅刻する。
父親は酒が入ると暴れる。じゃあ飲まなくて良いのに、飲まないと暴れる。母親は物心ついた時から居なかった。何度か警察とかそうじゃない人が来た記憶がある。でも最近は無くて、あたしもバイトに出る時間が長くなって、だから家に居る時間が短くなった。
帰って眠っていれば幸い、起きていれば殴られた。理由は知らないけれど、母親に似てるからだと何となく思っていた。
中学まで友達は居なかった。あたしの服に煙草の匂いが染み付いてるから。親に仲良くするなと言われたから。あたしの頭が可笑しいから。
高校に入ってバイトをしてちゃんと食べられるようになって、財布のお金を巻き上げられない時だけあたしは人間の形をしていられた。
家はほとんどゴミ屋敷だ。あたししか捨てる人間が居ないから。それで大体、あたしは捨てられなかったゴミ袋の上で伸びてる。
警察が来てから、顔を殴られる機会が減ったのに。目の下が腫れて視界が狭くなっていた。
「学校……」
変だと思われたくなかった。
クラスメートたちから。先生たちから。世の中の人たちから。
こんな顔でマスクをして、学校に行けばどうしたのかと聞かれる。階段から落ちたとか、扉にぶつけたとか、それらしい理由をいくつも並べて、並べすぎて変わってると思われたくない。
いや、もう可笑しいか。
バイトはちゃんと行こう。
高校三年の夏なのに、あたしは少しも進路のことなんて考えらない。このままコンビニのバイトで生計は立てられるのかな。ていうか、いつまで。
「いつまで生きてるんだろ……」
ゴミ袋の上で呟く声は誰にも届かない。
やっぱりあたしの頭は可笑しくて、少し笑った。
あの日から近付いて来なくなった深尾が話しかけてきたのは免許を取った日だ。車に乗せてくれた日から、また距離が戻った。
「今日バイト?」
三年でクラスは分かれている。休み時間に食堂の端で一番安い親子丼を食べるあたしを見つけて、深尾は近くに座る。
クラスメートたちから「史津に番犬が戻った」と噂されているのは知っていた。
「うん、バイト」
「じゃあ迎えに行く」
「来なくて良いよ。一人で帰れるし。ガソリンが勿体ないよ」
「運転したい」
「彼女作ってドライブに連れて行ってあげたら?」
「ドライブって」
「海辺を走ったり?」
「海行く?」
尋ねられた。あたしは顔を上げる。
海。
海のある県に生まれたのに、あたしは一度も海を見たことが無かった。お金がないと行動範囲は必然的に狭くなる。手に入れたお金は、明日のあたしが生きる為に一円でも多く残しておきたかった。
だから、海に行きたいなんて思ったことはない。行ってすることも分からないし、何が楽しいのかも知らない。
「行ってみたい」
すんなりとその言葉が出た。人に何かをしたいと言ったのは初めてだったかもしれない。
「じゃあ行こう。明日休みだし」
深尾は少し笑った。
その日のバイト帰り、本当に深尾は車で来てくれてうちのコンビニで買ったおにぎりや菓子パンを差し出した。
「夕飯」
「払う」
押し問答するのが面倒だったのか、深尾はあたしが選んだメロンパンのお金をすんなり受け取った。それから車が発進する。
「夜の運転、怖くない?」
「怖い。急に猫とか人とか飛び出して来たら嫌だ」
「あ、そっち?」
「どっちだ」
同級生の運転でメロンパンを頬張るあたしは、なんだか非日常にいるみたいでふわふわしていた。
「ほら、おばけとか」
「生きてる人間が一番怖いだろ」
「確かにねえ」
その怖さを知ってるあたしたちは黙る。メロンパンを咀嚼する音だけが脳みそに響いた。
「海だ」
助手席側の視界が開けて、海が見えた。
想像していたよりずっと大きく、黒い。砂浜には誰もいない。
「こんななんだ……」
「こんな?」
「海、初めて見た」
「まじで?」
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