一 斬殺

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一 斬殺

 水無月(六月)二十日。夜九ツ(午前〇時)。  辺りが寝静まり、雨がそぼ降る深夜、神田花房町の料亭兼布佐の母屋の塀を跳びこえ、黒装束の夜盗が中庭に舞い降りた。夜盗は裏木戸の閂を外し、塀の外にいる黒装束の三人を導き入れた。料亭兼布佐は連日盛況のため、主の兼吉の家族も奉公人も疲れてぐっすり寝込んでいた。四人の夜盗に気づいた者はいなかった。  夜盗は中庭の松の木陰に身を潜め、周囲を見渡して誰もいないのを確認すると母屋の奥座敷の外廊下に上がった。水無月(六月)にしては蒸し暑い夜だったため、奥座敷の雨戸は開いていた。四人の夜盗は静かに障子戸を開け、奥座敷に侵入した。  主の兼吉と女房の布佐、そして一歳の娘由紀は奥座敷の寝所で褥に身を横たえていた。  親分格の夜盗の指示で、褥で寝ている兼吉と隣の褥で寝ている女房の布佐に、一人ずつ夜盗が近づき、一人が一歳の娘の由紀に手を伸ばした。  夜盗が兼吉を背後から羽交い締めにして口を押え、首筋に匕首(あいくち)を当てた。その瞬間、兼吉が目を覚し、事の次第を一瞬に理解した。兼吉は慌てなかった。金子さえ渡せば皆助かるだろう・・・。 「オイ、声を出すんじゃねえ。出すと、ガキがあの世行きだぜ」  親分格の夜盗の指示に、分かった、と兼吉は頷いた。  兼吉が頷くと同時に、隣の褥で寝ている布佐は、他の夜盗に羽交い締めにされて口を押えられて目を覚した。一歳の娘の由紀を見ると、もう一人の夜盗の腕の中で眠っている。  娘の由紀を抱いている夜盗の手は無骨な男の手ではない。ほの暗い有明行灯の明かりにもかかわらず、布佐は一瞬にその事を見て取り、心に一筋の希望の光が射したような気がした。由紀の命だけは助かる。祖父母の家へ泊りに行っている倅芳太郎は無事だ・・・。 「溜めこんだ金子があるだろう。どこにあるか言え。白を切るんじゃねえぞ。ガキと女房を仏にしたくねえだろう」  夜盗に羽交い締めにされている兼吉に、親分格の夜盗が穏やかにそう言ったとき、由紀が目を開けた。布佐は驚いたが声を立てなかった。由紀を抱いている夜盗は由紀をあやした。由紀は目を閉じて眠った。布佐はほっと安堵した。 「ここの台所の床下だ。味噌や醤油の瓶といっしょに、瓶に金子を入れてある」  兼吉が金子の在りかを明かすと、親分格の夜盗と兼吉を羽交い締めにしている夜盗は、兼吉の首に匕首を当てたまま、母屋の台所へ連れてゆき、床下から三百両の金子を納めた瓶を取り出させた。 「あったぜ。もう用はねえ。殺れ」  親分格の夜盗の指示で、兼吉を羽交い締めにしている夜盗は兼吉の首を匕首で斬った。  兼吉は声も出せずに首を押えて吹き出る血を止めようとしたが、呆気なく事切れた。夜盗は、これまで商家や料亭の主たち何人もの首を斬って盗みを働いたらしく、頸動脈を斬る手口に慣れていた。  二人の夜盗は寝所に戻り、二人の夜盗に、 「三百両もあった。女房とガキを始末しろ」  と小声で指示した。夜盗の黒装束から血の臭いが寝所に漂った。  夜盗から漂う血の匂いに、兼吉が斬殺されたと気づき、布佐は悲鳴を上げようとしたが、夜盗に口を押えられて声が出ない。  父の異変を知ってか、由紀が他の夜盗の腕の中で泣きだした。夜盗は由紀を抱きしめて由紀の背を圧迫した。  夜盗はこのまま由紀を圧死させる気だ・・・。そう思った布佐はもがいた。布佐の足が由紀を抱いた夜盗の足を払い、由紀を抱いた夜盗がひっくり返って布佐の上に倒れた。  布佐は体勢を崩した。その時、布佐の手が布佐を羽交い締めにしている夜盗の右袖に絡んで引き、夜盗の匕首の柄が布佐の顎と鼻を直撃した。  布佐の口から大量の血が流れ、意識を朦朧となった。気を失う寸前、布佐は夜盗の肌けた右胸に『辰巳下がりの彫り物』を見た。  口から大量の血を流して倒れた布佐を見て、布佐を押えていた夜盗は、布佐が死んだと思った。 「はええとこ、ずらかるぜ。ガキを始末しろっ」  親分格の夜盗が、由紀を抱いている夜盗を睨んだ。 「あたしにゃあ無理だわ・・・。こんなにかわいいんだよ・・・」  由紀を抱いている夜盗は腕を解いて由紀を夜盗に見せた。 「たしかに・・・。だが、置き去りにして喚かれたら事だぜ。寝てるんか」 「そうだよ。あたしたちの子どもにしようよ。ねっ、いいだろうっ。まだ、一つだよ。憶えてなんかいないさ」  この夜盗は女だ。しかも、由紀の歳を知っていた。 「しゃあねえな。じゃあ、連れてゆけっ。ずらかるぜっ」  夜盗たちは由紀を連れて奥座敷から中庭に出た。中庭の松の木陰に身を潜めて周囲を見渡し、誰もいないのを確認すると料亭兼布佐の母屋の中庭から裏木戸を抜けた。
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