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三 策を講ずる
水無月(六月)二十一日。夜八ツ半(午前三時)。
未明であったが藤堂八十八は円満寺から北町奉行所に戻り、事件を北町奉行に報告した。
料亭兼布佐の女将の布佐は、亭主を斬殺されて金子三百両を奪われた挙げ句、娘を拐かされて円満寺に匿われている。布佐は夜盗に殴られ、今は記憶が朧であるが、夜盗は四人で一人は女、亭主が金子を貯めていた事と、娘の歳を知っており、一人の夜盗の右胸に辰巳下がりの彫り物が有ったと証言している。夜盗は亭主の知り合いか、事前に料亭兼布佐を探っていた・・・。布佐が生きていると知れば、夜盗たちは布佐を口封じすると思われる・・・。布佐も斬殺された事にするのが無難だ・・・。
北町奉行は即座に決断した。火付盗賊改方は杜撰な探索が多く冤罪が多発しているため、『料亭兼布佐の主夫婦斬殺と娘拐かし事件』を内密に町方扱いにし、藤堂八十八に、布佐の保護と息子の保護を命じて内々に事件を解決するよう指示し、神田佐久間町の町医者竹原松月と円満寺の丈庵住職に、『布佐を円満寺に奉公する下女として匿うよう』依頼した。
さらに、料亭兼布佐の管理を北町奉行所が行ない、息子が家督を継げるよう、息子に板前修業させ、元服した折は、親を殺害した夜盗を親の敵として成敗する仇討ち許可証文を、今から内密に渡す算段をした。辰巳下がりの彫り物の他にめぼしい物的証拠が無い事件に、北町奉行は事件解決に時がかかると踏んでの措置だった。
「よいな、八十八。まずは布佐の在所『料亭兼布佐の主夫婦斬殺と娘拐かし事件』を説明し、『布佐は娘共々行方知れずだ』と事実を伝えるのだ。布佐を匿っている事を知られてはならぬぞ。理由は分かっておるな」
「はい」
「そして、
『料亭兼布佐は北町奉行所が管理し、親の敵を討つ仇討ち許可証文を渡す故、布佐の倅に板前修業させ、元服したら料亭兼布佐を継ぎ、親の敵を討て』と伝えるのだ。
倅に親の敵を討つ気があれば、倅は北町奉行所の良き密偵になろうぞ。
夜盗を討った折は、北町奉行所の密偵として役目を果した事にすれば良い。さすれば、事件解決と仇討ちの本懐が遂げられる・・・」
北町奉行はその様に説明したが、
「やはり、儂が行って説明しよう・・・」
藤堂八十八に説明させる事に満足してはいなかった。
暁七ツ半(午前五時)。
北町奉行は藤堂八十八を伴って墨田村の百姓家を訪れ、北町奉行の名乗りを上げた。
布佐の実家は墨田村の大百姓だった。早朝の北町奉行と与力の藤堂八十八の突然の訪問に、布佐の両親は、兼吉と布佐と孫の由紀の身に何が起こったかを察し、北町奉行と藤堂八十八を百姓家の奥座敷に当たる仏間に案内した。
北町奉行は上座に座って藤堂八十八を隣に座らせ、話を切りだした。
「早朝の突然の訪問を重々お詫び致す。これから話す事、心してお聞き下され」
北町奉行は、目の前に正座している布佐の両親と布佐の長男芳太郎を見据えた。
布佐の両親と与太郎は、北町奉行の眼差しに身がすくみ、ギュッと膝頭を掴んだ。
「わかりました」
「実は、昨夜、料亭兼布佐に夜盗が押し入った。
主の兼吉は斬殺され、布佐と娘の由起は行方知れずだ」
「なんてこったぁ・・・」
布佐の父親が呻くように言った。顔が今にも泣き崩れそうだ。母親はあんぐりと口を開けたまま何も言わない。芳太郎はどういう事か理解できず祖父に訊いた。
「祖父ちゃん、母ちゃんに何があったん」
「・・・」
祖父は芳太郎に答えられずにいた。
「そなた、兼吉と布佐の息子か」
北町奉行は優しく尋ねた。
「そうだよ。父ちゃんと母ちゃんと由起に、何があったん」
「夕べ、盗人が料亭兼布佐に入ってな・・・。そなたの父上が殺された。母上と娘は行方知れずだ・・・。証拠が何も残っておらぬため、盗人が誰か、何もわかっておらぬ」
「・・・・」
一瞬に芳太郎の顔が歪んだ。芳太郎は嗚咽して咽び泣きだした。十歳の子どもでも、両親と妹がどういう目に合い、事件がどうなっているか理解できる。
「では、探る術がねえんですかい」
祖父が震える両手で両膝頭を掴んだまま、声を震わせて北町奉行に訊いた。
「手口から見て、『寝首かき一味』だと思われる」
「それだけわかってりゃあ、なんで探れねえんですかっ」
「『寝首かき一味』は押込みの後、成りを潜める。短くて半年。長ければ五年だ」
「もしかして、盗んだ金子の額で、成りを潜める時期が違うって事ですかい」
こんな場合でも、祖父はなかなかの考えをしている。切れ者らしい・・・。
「如何にもそうだ」
「娘たちはいかほど盗まれたんですか」
「うむ、料亭兼布佐は繁盛していたから、子どもたちのために溜めておったと思われる。入れ物の瓶の大きさから、二百両あるいは三百両があったのはまちがいない」
「なんてこったい・・・・」
そんな金子のために兼吉が殺されて布佐と由紀が行方知れずになるなんて・・・、布佐の両親と芳太郎は、言葉も無くうな垂れた。
「実は、辛い事を話さねばならぬ故、奉行の儂が直々に訪ねて参った」
そう言って北町奉行は祖父母と芳太郎に向かって深々と御辞儀した。
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