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五 葬儀と修業
水無月(六月)二十三日。昼四ツ(午前十時)。
神田湯島の円満寺で兼吉と布佐の葬儀が行なわれた。近隣の住人、馴染み客や仕入れ先など参列者は多かった。円満寺の外にも、子どもを背負った母親や辻売りなど、故人の知り合いが数多く葬儀を見守っていた。それら多くの人々からも、料亭兼布佐が神田界隈の人々から慕われていたのが良くわかった。
この者たちの中に、由紀を負んぶした女がいたが、その事に気づく者はいなかった。
「芳太郎。父はこれらの人々に慕われていたのだ・・・」
町人に扮した北町奉行の言葉に、子どもながらも、芳太郎は亡き父の人望に納得した。
必ず母と由紀を探して、父の敵を討つんだ・・・。
芳太郎は決心していた。
文月(七月)一日。
芳太郎は、北町奉行の知古であり北町奉行所の検視方を務める、日野道場主の日野徳三郎に預けられた。日野道場で芳太郎が行なうのは、家人の飯の支度と剣術修業だ。
芳太郎が行なう飯の支度は、日野徳三郎の家人(日野徳三郎と妻の篠、嫡男の穣之介、甥の唐十郎、住み込みの門弟坂本右近)と芳太郎も含め六人分だ。
食材仕入れと調理と片づけは、料亭兼布佐で父に付いて板前修業に近い生活を行なっていた芳太郎にとって、量的にも時間的にも、充分な余裕があった。そしてこれに加え、剣術修業が増えたのである。
芳太郎の朝は早朝の拭き掃除から始まる。道場を拭き清め、次ぎに台所を拭き清める。
それが終わると水運びをする。
道場横の井戸から釣瓶で二つの桶(一斗18リットルの水桶)に水を汲み、天秤棒で水桶を担いで台所に運ぶ。運ぶ水は全部で四斗(約72リットル)の水瓶二つ、計八斗(約142リットル)だ。
二つの水桶で運べる水は最大で二斗だが、十歳の芳太郎が運べるのは二つの水桶に半分ずつの一度に一斗なので八往復する。
簡単と思っていたが、水の入った桶は天秤棒の両側で揺れる。そのたびに天秤簿が肩に食い込み、腰がふらつく。足を踏んばればその反動で、身体ごと、あらぬ方向へ持って行かれる。水桶の動きに身を任せ、足の動きをそれに合わせるしかない。
身体の動き全てが板前修業と剣術所業の元になる。水汲み、薪割り、拭き掃除、そして、惣菜のための魚や野菜の捌き方、全てに心を配って動くように、と徳三郎に言われた芳太郎だ。
料亭兼布佐を継いで母と由紀を探して父の敵を討つのに、板前修業と剣術修業を成し遂げなければならない。へこたれてなるものか・・・。
そう思うものの、おっとっとっと・・・。
水が入った桶は天秤棒の両端で、芳太郎の意に反して揺れまわる。
それならと、桶が揺れる方向へ歩を進めるが、揺れ方に癖があり、芳太郎の歩みは左に寄ってしまう。左脚が弱いのか・・・・。
芳太郎は父から日々の賄いを手解きされ、料亭兼布佐の後継者として、筋の通った物の考え方と父の教えが芳太郎の心に息づいていた。その思いと考えは十歳の子どものものではなかったが、その事を芳太郎が知る由もなかった。
水運びが終わると芳太郎は台所で朝餉の仕度だ。すでに徳三郎の妻の篠が出入りの魚屋や棒手振りから一日の食材を買い求めている。
「新しい門人さんですかい。あれ、もしやして芳太郎ちゃんでは」
魚屋が徳三郎の妻の篠に訊いている。
「はい。料亭兼布佐の芳太郎さんです。
私と共に、皆の賄いを作ります故、私共々、魚源さんから庖丁の扱い方と魚の捌き方を学びとうございます。
よろしくお願いいたします」
篠は台所の板の間に正座して芳太郎共々、土間に立っている魚屋の魚源に御辞儀した。
「御新造さん、お顔をお上げください。もったいない御挨拶、あいすみません。あっしで良けりゃあ、なんでも訊いてください。
太郎ちゃんと呼ばせてもらいますよ。
あっしと太郎ちゃんは、太郎ちゃんが生まれた時からの付き合いで顔なじみです。
料亭兼布佐で太郎ちゃんは小さな庖丁を使ってました。いろいろ刃物の扱いはご存知ですから、魚を料理することから始めますか」
「お願いします。おいらの庖丁を用意しました。
父ちゃんから、魚の捌き方と、庖丁の手入れの仕方と扱い方を教わりました。
だけど、また教えてください。父ちゃんは、見て憶えろと言ってたので、おいらの見落としがあるかもしれないから・・・」
魚屋の魚源は名を源助といった。料亭兼布佐にも魚を卸していて料亭兼布佐の主の兼吉とは顔なじみだった。
「わかりました。魚は、どのくらいの大きさの魚までおろしましたか」
子どもの力は限られている。大きな魚を扱うには、力が必要だ・・・。
源助はそう思った。
「小魚切り包丁で、鰺くらいの大きさまで・・・」
「鰺はどんな造りに」
「干物、煮付け、塩焼き、南蛮漬け、刺身、叩き、なめろう。
鰺の料理は、いろいろ父ちゃんの仕方を見て憶えました」
魚源の源助は驚いた。
ここまで言えるなら、他の魚でもそれなりに調理するはずだ・・・。
「では、今朝の朝餉に、太郎ちゃんなら、何を造りますか」
「暑くなったら根生姜を添えた鰺の塩焼き。汁物は鰺の潮汁。小松菜の塩もみ、菜花の三杯酢・・・」
芳太郎そう言って涙ぐんだ。
「如何しましたか」
徳三郎の妻の篠は優しく問いかけた。
「・・・父ちゃんが皆に造った賄いだ・・・」
芳太郎は父の教えを思い出し、父を亡くして母と妹が行方知れずの、己の身を実感した。
芳太郎の言葉に、徳三郎の妻の篠は、料亭兼布佐の主の兼吉が日常の食事で、芳太郎に板前の仕事を教えていたのを実感した。
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