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いつも笑顔の先生がいた。
男性みたいに髪が短くて、女性とは思えない言葉使いの先生だ。
どんな時も前向きな言葉しか言わない。
それは先生が今、幸せを感じられる環境にいるのだと思う。
羨ましいと思う自分と、分けてほしいと願う自分がいた。
「先生はいいよねぇ」
黒板を消す先生の後ろ姿を見て、教卓の前の席に座り、鞄の中に教科書をしまっていた僕は呟いた。
「なにがだい?」
それは意外な言葉だった。
黒板けしを持ったまま、振り返った先生はいつもの笑顔だった。
「え、だっていつもニコニコしてるから……」
驚く僕に、先生は首を傾げる。
「それは先生がこの仕事を好きだからじゃないかな」
「……そ、そうなんだと思うけど」
心臓がバクバクいってる。
なんか悪いことをしてしまったみたいだ。
「先生はね、子供が好きなんだ」
「え、そうなの?」
聞いたことがなかった。
でも、それならいつもニコニコしているのもわかる。
「ああ、未来があるからね」
なぜか、その時その言葉にトゲを感じた。
「先生にだって未来あるじゃん」
先生は瞳を揺らした。
いいや、と僕を見て首を振る。
「私は治らない病なんだ」
「……」
「……なんて嘘嘘、それならいいのかな? 君が望んでいる答えは」
「僕はそんなこと望んでは……」
先生はうんうんと頷く。
「先生もだよ」
なんのことを言っているのか、少し考えた。
「先生もって……?」
先生は黒板けしを一度元の場所に戻して、教卓にゆっくりと両手を置いた。
見つめられて、僕はかたまってしまう。
「君は私の幸せを望んでくれるんだね。ありがとう」
「!?」
君はってなんだろうと思う。
「そんなこと望んでないって言ってくれただろう? 不幸を望んでいないということは、幸せになってもいいと思ってるんだ。とても優しい子だね」
「そんなの!」
「……」
そんなの人として当然だと思う。
自分が幸せじゃなくたって、他人が不幸になるのを見て、いい気分になんかならない。
「僕は先生が幸せだと思うけど、それを羨ましいとも思うけど、それとこれとは違うから……」
「そうだね」
「ただ……」
ただ、望んでいた言葉を言うべきか悩んだ。
「どうしたんだい?」
先生は首を傾げる動物のような表情をした。
「分けてほしいとは思う」
「そこで止まれるのは、君がしっかりしてるからだね」
「……どうして? 僕ぜんぜんそんな」
先生はただただニコニコして見せる。
「心があるから人は止まれるんだ。心があるから感じられるんだよ。誰かが幸せを感じる時、誰かはその幸せに負けてしまうだろう。だからといって、その幸せは永遠じゃない。次の世代へと受け継がれるのさ」
「……どういう」
大げさに感じた。
でも、それは言わなかった。
「私が子供を好きなのは、今私が抱いている気持ちを君のような優しい子が聞いて、感じてくれるからなんだろうね」
「……なにもしてないよ」
「いいや、してる」
「何を?」
笑っていた顔をスッと紳士なまなざしに変えて、先生は紡ぐ。
「今、傍にいてくれてるじゃないか」
その言葉の意味は、その半年後に亡くなった先生の日記に記されていた。
「君が傍にいてくれたから、私は淋しくなかったよ」
治らない病気も、病気で気弱になる自分も、隠して頑張っていた先生。
その時、僕がいたことで、救われていた。だから、ありがとうが言えてよかったと綴られていた。
「……なんでっ」
中学生になって半年の僕には重すぎたけど、ひとりになって、先生がいなくなって初めて、あの時、先生にもっとちゃんとした言葉を贈れていたらと思った。
「後悔してくれって書いてる……。先生酷いや」
後悔してくれ。
後悔するってことは、君が私を嫌いじゃないからだ。
言えなかったことを後悔して、その糧で、人を大事にしてほしい。
私の傍にいてくれて、ありがとう。
哀しくもあり嬉しくもあった。
先生はうまく言えない僕の存在でも必要としてくれていたのだと気づいたから。
不思議と涙は出ない。
ただただ切なかった。
先生はやり残したことを書いていた。
それが生きているうちに出来ないだろうとも。
そして、これだけはやってほしいと米印のあと赤いペンで書かれてある。
「生きてくれ」
その言葉を見て、僕は悲しかった。
先生はきっと生きたかったんだ。
先生はきっと伝えきれなかったんだ。
「生きたかったんだね。先生」
「生きられなかったんだね……」
僕はその日、これからの人生を後悔して生きると決めた。
その中で笑おうと。
僕は頭が悪すぎて先生にはなれなかったけど、色んな人と関わり、色んな言葉を知り、それをたまに頭の中で詩にするようになった。
そして、なんとなく1度だけ、それをSNSに書き込んだ。
その詩を見て、フォローしてくれた12も下の女の子が今隣にいて、一緒に食器を洗っている。
(先生、ありがとう)
じっと傍らの彼女を見ると、短い髪をかきあげて照れたように笑った。
end
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