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裏山の空き地に、栗の苗木が余ったと貰った10本を父親が植えてみたものの、3年後の大量収穫以降、イノシシのご馳走になっていた。
下草刈りの面倒臭さや、残暑から彼岸前の時期に発生する蚊の多さと強い痒みに負けて、その場所から遠のいていた。
今年になって登山に嵌まり、そう言えばと栗の木を思い出した次第で、トレッキングの練習にと久々にこの場所まで登ってきた。
2m程度だった木が、優に3m以上の高さになっており、伸びきったセイタカアワダチソウが栗林への入り口を塞いでいた。
栗の木の周りには元々サザンカが植わっていて、陽を浴びた濃い緑の葉が光っている。その中に蔓が絡まって、蜘蛛の格好の足場となっていた。
蜘蛛の巣を払い、簡単に刈った雑草を抜けると、薄暗い栗林の中に入った。
茂った葉の間からまだらに光が差し込み、蚊取り線香の煙がゆらりと揺蕩うのが見えた。立ち上る白煙が、記憶の片隅に沁みて憶い出させた。
工場の裏口横にある外階段の下が喫煙所になっていて、階段は非常時以外使用する人もいないため、煙が立ち上っても問題なかった。
事務所がある本棟と工場の別棟の間にあるため、普段会わない事務員と工員が会える場所でもある。
工員である万谷とは、彼の名字が読めず、私が質問したことがきっかけで仲良くなった。
喫煙所から、工場を囲むフェンスの向こうに、古墳だった丘が見える。頂上に公園があるが、こちら側に遊歩道があるわけでもなく、桜の木が数本と、栗の木が1本以外は雑草が伸び放題だった。
万谷は秋になると栗の実を拾うのを楽しみにしていた。分厚い手袋をしてイガごと喫煙所まで持ってきては、作業靴で実を踏み出していた。
分厚い手袋で器用に実をつまみだす。私はそんな手袋でつまみだすなんて出来ないだろうから、単純にすごいなと感心しそう伝えると、自分のタバコを取り出した万谷は、これまた器用にタバコをつまみだし、私に一本差し出した。笑った私に満足した彼は、実を取り出す作業に戻った。一度工場に戻った彼はビニール袋を持ってきて、半々の量にして、ひとつを私に渡してきた。
両親が生きていた頃は母がゆで栗を作ってくれていたような気がするが、自分で作ったことはないし、社会人になってから栗味以外の本物の栗を食べた記憶はない。いらないと言うと、少し残念そうにしていた。
後日万谷は茹でた栗を持って喫煙所で待っていた。栗を一緒に食べながら、彼が料理が好きなことを知った。駅前のスーパーがお気に入りらしい。
栗は知ってる栗の味よりも薄かったような気がしたが、食べろ食べろと何個も渡してくる彼の笑顔のせいで食べ過ぎてしまった。第一印象は目鼻立ちのはっきりした顔だと思っていたが、笑うと細い糸のようになる目は、彼の纏っている空気と同じように柔和さを持つ。私はそれを見るのがとても好きで、それが喫煙所で何の気なしに彼を待っている理由だ。
食べ過ぎたと栗の殻を見せると、彼が目を細めて笑った。
休日に駅前のスーパーに行くと、登山服を着た万谷が買い物をしていた。声はかけずにいると、女性が彼の肩を叩いた。振り向いた彼は彼女の手を取って野菜コーナーに向かった。笑い合いながら果物を選んでいる。彼女も一緒に登山をしてきたのだろう。彼女が居てもおかしくないのに、今までそんなことを考えもせず、少しづつ思いを募らせてきた自分が、会えるかなんて期待してこの場所に来た自分が、情けなくて恥ずかしくなった。
それなのに、登山が好きになれば、料理が好きなればと頭の中は彼に近づくためにはどうしたらいいかが駆け巡っていく。
勝手に手が動いた。
彼と知り合ってこっそり覚えた手話が淋しいと。
喫煙所で会えないと、覚えたての手話で、淋しいを作った。
右手が胸の前を下るこの仕草は淋しいにぴったりで、こんにちはやありがとうより頻繁に形作った。
言葉より雄弁で、誰にも言えない気持ちを素直に表せる。
いまだ彼の前で手話を使えず、好意を伝える勇気は自分のどこからも出せないのに。
ただただタバコを吸う本数だけが増えて、彼を迎えて、去るのを見送るばかりだ。今日も彼がこの場所を去るのを見送るのか、自分がこの場所から先に去るのか。
スーパーを出ようとしたのに、もう一度彼に視線を戻した。
目が合った。
驚いて思わず大きく息を吸ってしまうと、吐くのと同時に涙目になってしまった。離れてるから見えないだろう、手を挙げて挨拶をして、変な笑顔を向けてその場を逃げ出した。
恥ずかしさは、周囲を巻き込んで、車や歩道を歩く人や街路樹を絵に変えた。
音もなく、自分の心臓と早足の音だけが響いている。
肩を掴まれた。
瞬時に世界が戻って音が溢れた。
なぜ彼の話す声は優しいのだろう?
手話を交えて、彼がどうしたの?と聞く。
音が溢れて、世界はこんなに動いているのに、自分は何ひとつ動けず、存在できていないみたいだ。
彼が私の手首を掴んで、歩道沿いの窪んだ場所にあるベンチに向かった。
気恥ずかしさで手も振り払えず、少しだけ零れた涙と羞恥の頰の赤さはどう誤魔化せばいいのかばかり考えた。
彼が話し出すより先に、体調が悪かっただけと言った。
頷いて、少し笑顔を見せた彼は、淋しいと手話をした。
真っ赤になった私は俯いて彼が見られなくなった。
私の肩をポンポンと叩いた。
顔を上げられない私にゆっくり彼が話し出した。
いつも淋しいのはなんで?
なんで淋しいの?
彼は知っていた。いつも言葉に出来ず、ひっそりさらけ出していた心の内を。
なおさら彼と目を合わせる勇気がなくなって、恥ずかしさで手が震えた。
彼がもう一度優しく肩を叩いた。
顔を上げられない私の手にタバコを一本握らせた。
彼がふーっとゆっくりと煙を吐き出した。
太ももに肘をついて顔を近づけてきた彼が、いつもの柔和な雰囲気で煙と一緒に言葉を吐いた。
タバコ、あなたに会うまで吸ったことなかったんだよ。
意味がわからず、視線だけ上げた私に、目を細めた彼が、登山は好き?と聞いた。
栗林の中をカサカサと虫が枯れ葉の間を動く音がする。さらに大きな足音が後ろで鳴っている。火ばさみを使ってカゴに栗を投げ入れている万谷が、こっちに来て手伝えという意味だろう、手招きをした。
嫌だと手話で伝えると、タバコが吸いたいとジェスチャーをしてきた。
近づく間、カゴの中の栗を見て嬉しそうに笑っている。
肩を叩くとこちらを見た彼の口にタバコを突っ込んだ。
眉間に皺を寄せて、その後ふっと笑った彼を見て、
幸せと手が動いた。
笑い出した彼が私の手を掴むと、幸せだねぇと言って、木漏れ日の間を歩き出した。
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