新しい暮らし

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新しい暮らし

 通信制高校を卒業する頃には僕の指先は震えが残るものの随分動かせる様になっていた。ただそれは長続きせず一般就職は難しかった。僕は就労継続支援A型の施設でパンや菓子の袋詰めやシール貼りに従事した。松葉杖を付いて自宅の玄関先で施設の送迎車を待ち施設でシールを貼り送迎車で帰宅する、その繰り返しだった。 「母さん、ごめんね」 「なに言ってるのよ」  23歳の誕生日前には松葉杖が不要になり右脚を引き摺りながらも送迎車のタラップを上る事が出来る様になっていた。18歳の莉子の姿を今も夢に見るが日々の暮らしで精一杯でそれどころでは無かった。紙が擦り切れるまで開いては読み、読んでは畳んだ紙飛行機は自室の勉強机の引き出しに仕舞い込んだ。 「母さん、僕、市営団地に入居しようかと思うんだ」 「ひとりで大丈夫なの」 「24歳にもなって親の世話になるなんて出来ないよ」  僕はケースワーカーの勧めもあり障害者手帳と障害者年金の申請をした。脊髄の損傷による半身不随で障害3級に認定され障害者年金が支給される事となった。就労継続支援の賃金と合わせて手取り100.000円、息を潜めるように細々と暮らした。 「ほれ、坊主、トマト食え」 「ありがとうございます」 「美味いだろう」 「はい、美味しいです」  市営住宅の隣の部屋に住む高齢男性が家庭菜園の野菜を分けてくれた。休日になると僕は公園の砂場にあるベンチで太田の爺ちゃんと日向(ひなた)ぼっこをして過ごした。  25歳の春、実家の祖母が老衰で亡くなった。婆ちゃんはイギリス製の骨董品の収集家で押し入れの中には年代物で未使用のティーカップや花瓶が眠っていた。それ等はインターネットで検索したところオークションで何万円もの値段が付き色めき立った両親は出品したらどうかと目を輝かせた。 「誰がその準備をするの」 「勿論、蔵之介よ」 「梱包や発送は誰がするの」 「勿論蔵之介よ、暇でしょう?」  確かにその頃の僕は暇を持て余していた。 「インターネットに出品して割れたら面倒臭いからマルシェで売るよ」 「マルシェってなに?」 「街の骨董市場」 「高く売れるの?」 「1個、1,000円くらいじゃない?」 「ええ、勿体無い!」 「じゃあ母さんがやってよ」 「・・・・・・・・」  そして僕は隔週で開催される骨董品を扱うマルシェに出店する事にした。
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