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月
「……月が、綺麗ですね」
「そうかね? それより早く飯に行こ。焼肉が食べたい」
「けれど、君の方が綺麗……」
「黄身? 卵より肉でしょ。ほら、焼肉行くよ」
会話が噛み合わない2人。こう見えてカップルらしい。
背が高くて大きいのに、細身で物腰柔らかそうな男性と、小柄で可愛らしいのに、出てくる言葉は男勝りな女性。
スーツを身に纏ったデコボコな2人は、駅前に設置されたベンチに座って空を見上げていた。
街の灯りが眩し過ぎて星は見えない。
高い位置でひっそりと顔を覗かしている三日月だけが、2人の目には映っていた。
「あの月の輝きは、まるで君の瞳みたいだ……」
「てか、店どこにする? 酒が美味いのは『焼肉 アンジー』だけど、『寅市』の牛タンも捨てがたいよな」
「君の瞳に乾杯ができるなら、僕はどこへだって付いて行くよ」
「じゃあそっちの奢りで『満腹苑』に行くか。メニュー表に“時価”としか書かれていない、恐怖の店へ」
「君が望むなら、僕はどこへでも……」
「じゃあ決まりだな」
男性が掛けているフチなしの眼鏡には、変わらず三日月だけが映っている。
そんな眼鏡の奥で優しそうに目を細めている男性の腕を取り、女性は小走りで飲み屋街の方へ向かって行った。
◇
時刻は21時40分。
呂律が回っていない集団の横を通り過ぎると、少し先に見えて来る赤提灯。『満腹苑』と書かれた暖簾をくぐると、常連客らしき人が1人、小さな七輪をお供に焼肉と酒を楽しんでいた。
女性が店へ入ると、カウンターに立っていた店主が「おぉ!」と声を上げる。「お疲れ様です、英治さん」と微笑みかけると、店主は嬉しそうにメニュー表を手に取った。
パチパチ……と、炭が焼ける音が響く店内。
時折2席向こうから聞こえる、ジュー……という美味しそうな音と匂いがお腹を刺激する。
椅子が高くて足が床に届かない女性と、足が長すぎて机の裏に膝が当たる男性。デコボコな2人は、肩を寄せ合いながら1つのメニュー表を眺めた。
時価。
商品名と“時価”としか書かれていないメニュー表は、肉の油か何かで少しべたついている。
「英治さん、お勧めを適当にお願い」
「良いのかい、優佳ちゃん」
「良いんだ。今日は彼の奢りだから」
優佳ちゃん、と呼ばれた女性は、出された水を一気に飲み干して男性に視線を送る。それに気が付いた男性も眼鏡の奥でそっと微笑み、優佳の頭を優しく撫でた。
「優佳ちゃん、もしかして……彼氏?」
「うん、そう」
「……優佳ちゃんが彼氏を連れて来るのは初めてだね」
「そうだっけ。知らんなっ」
店主は優佳と男性の間に小さな七輪を置き、よく冷えた生ビールとお通しも一緒に出した。
パチパチ……パチパチ……
弾ける火花を呆然と眺める男性。
無言のまま見惚れていると、ふいに肩を叩かれ男性は体を飛び跳ねさせる。
「ほら、先生。乾杯」
「はい。君の瞳に……乾杯」
手に持った生ビールを、カチンッとぶつけ合う。
グイッと一気に飲み干す優佳と、泡だけを口に含みグラスを置く“先生”と呼ばれた男性。
対照的な2人はお互いを見つめ合い、どちらからともなく微笑みを零した。
「優佳ちゃん、どこまで聞いても良いのかな」
「彼のこと?」
「そう」
七輪の横に肉の盛り合わせを置きながら、不思議そうに男性を見つめる店主。男性が小さく頭を下げると、店主もまた頭を下げる。
テレビもラジオも無い。
静かな店内に響く炭の音。
「須藤裕孝さん。元高校教師」
「元?」
「私の恩師。今は私が経営しているパソコン修理屋で、事務をお願いしているんだ。そして、私の彼氏」
「……情報が多いね」
「複雑なんだ。色々あるが故に」
優佳に2杯目のビールを差し出すと、それもまたグイっと一気に飲み干す。隣で静かに肉を焼いている須藤の様子を、店主もまた静かに眺めていた。
肉が焼け、香ばしい匂いが立ち昇り始める。
手際よく食材を焼いている須藤は、焼けたものを次々と優佳の皿に乗せていた。
「先生も食べてよ」
「優佳さんからどうぞ。僕は可愛い君が食べている様子を眺めていたいのです」
「じゃあ一緒に食べるか」
優佳は綺麗に両手を合わせ「いただきます」と軽く頭を下げて箸を持つ。須藤が焼いた肉を1枚掴んでその口に押し込み、もう1枚をまた掴んで、今度は優佳自身の口に入れた。
蕩けるような柔らかさの肉。
ジュワッと滲みだす油と旨味で、思わず優佳の口角も上がる。
「英治さん、最高」
「ありがとう、優佳ちゃん。なんせ、今日のNo.1だからね」
「え、初手から1番良いお肉を出したの?」
「うん。1口目が1番美味い。その1番に相応しい、自信を持ってお勧めできるお肉だよ」
「ふぅん。商売上手だね、さすが英治さん」
また1枚掴んで口に入れ、幸せそうに頬を押さえる優佳。
その様子を眺める須藤もまた、幸せそうに眼鏡の奥で目を細めていた。
時刻は22時半過ぎ。最初に居た人も帰り、店内には店主と優佳と須藤の3人だけになる。
2人のグラスが空いたことを確認すると、何も言わずとも提供されるお酒。
ジューッと、マイペースに肉を焼きながら、居心地の良いこの空間に浸る。
暫く無言で食べ飲みを繰り返していると、店主が「ちょっと裏を片付けて来るね」と言ってカウンターの奥に引っ込んで行った。
同時に優佳と須藤の2人はお互い見つめ合い、自然と顔を近付け唇を重ねる。
音が聞こえないように、そっと……重ねるだけの、接吻。
言葉を交わさなくても、相手の思うことくらい手に取るように分かる。
そうとでも言いたそうな表情の2人。
誰にも分からない。
誰にも理解できない。
2人だけの、独特な空気感。
カウンターの上に置かれている大きくてゴツゴツしている手には、隠しきれない皺が無数。優佳はそれに、そっと自身の手を重ねた。
そんなところからも感じてしまう。
須藤の、年齢。
「……優佳さん」
「先生。私、先生が隣にいること、今でもたまに幻覚なのではと思うことがある」
「もう、何年も経ちます」
「そうだけど、違う。そのくらい私にとって、恐ろしいことだった」
優佳はふぅ……と小さく息を吐き、須藤と指を1本1本絡め合う。
優佳が須藤と再会したのは、今から7年前のことだった。
仕事を終えて家に帰ろうとした時、橋に差し掛かったところで欄干に登る人影が目についた。
その人は黒色の革靴を丁寧に揃えて、詰め込み過ぎて膨れ上がっているビジネスバッグをアスファルトの上に置いていた。
「う、嘘だろ」
優佳は手に持っていた自身のバッグを投げ捨て、その人の元へ駆け寄る。
欄干を登り跨いで、勢いの強い川を眺めるその人の目に、猛烈な危険を感じたのだ。
そこからどうしたのか、優佳自身も覚えていない。
気が付けば路上で座り込んでおり、須藤は優佳の膝の上で気を失っていた……。
「あの時、まさか恩師の須藤先生だとは思わなくて。本当にびっくりした。意識が無くて、死んだと思って。本当に、恐ろしかったんだ」
「見つけてくれた方が優佳さんで良かったです。今では、そう思えます」
当時受け持っていたクラスの保護者から酷く罵倒され、叱責され……。ついに感情を失ってしまったある日、学校からの帰り道で衝動的に飛び降りようとしていた須藤。
優佳があの時間、あの場所に行かなかったら。
須藤はきっと、この世にはいない。
2人は空いている方の手を伸ばし、再びお酒を口にする。
カランッと氷とグラスがぶつかる音が響くと、2人また顔を見合わせて微笑み合った。
「ごめんねぇ、戻って来たよ」
「おかえり、英治さん」
店主は奥から持って来たフルーツの盛り合わせを優佳と須藤の間に置き、同じように微笑む。
指を絡め合ったままの2人。
店主はずっと微笑んだまま、何も言わなかった。
◇
“時価”で請求された飲食代は数万円。
高い食事だったが、お金を支払った須藤自身はどこか満足気で嬉しそうだった。
手を握り、同じ家に帰る。
仕事もプライベートも共にしている優佳と須藤。
端から見れば、どことなく親子に見える年齢差の2人。
だけど、そんなこと誰が思おうが……優佳と須藤には関係無い。
「今日も楽しかったです。優佳さんと一緒に居られて、良かったです」
「私も。先生、ありがとう」
家に着き、慣れた手付きでポストを開ける優佳。
中には複数枚のダイレクトメールと、それに混ざる、『須藤優佳様』宛ての郵便物。
「あ、この前応募した懸賞、当たったみたい」
「流石ですね。優佳さんは強運の持ち主です」
「裕孝さんほどでは無いと思う」
「……と、言いますと」
須藤の大きな背中に飛び込み、顔を埋める優佳。
ギュッ……と力強く体を抱きしめ、呟くように言葉を継ぐ。
「“私と再会できた”こと。これが強運であることを示す全てだと、思わない?」
「……そうですね。死ぬ寸前まで行った人間が、こうやって結婚までして、大切な人と一緒に過ごせているのですから」
優佳の頭を優しく撫で、2人共に空を見上げる。
街灯の灯りしかない家の前では、先程見た三日月の他に、無数の星も一緒に見ることができた。
「……月が綺麗です。だけど、それ以上に……優佳さんの方が綺麗です」
「……あのさ、それ本当にどうにかならない? さっきも言おうか悩んだけど、恥ずかしいんだけど」
「優佳さんが恥ずかしいと、僕は嬉しいです。だから止めません」
「何それ、意味不明なんだけどっ」
会話が自然な2人。こう見えて本当は夫婦だったらしい。
背が高くて大きいのに、細身で物腰柔らかそうな男性と、小柄で可愛らしいのに、出てくる言葉は男勝りな女性。
スーツを身に纏ったデコボコな2人。
表では『カップル』と偽り、裏では25歳差夫婦。
2人だけの穏やかな人生を、ただただ静かに楽しんでいた――……。
月が綺麗な夜に。 終
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