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市川 花弥子
「あなた、お部屋の窓からお山見える?」
「え?」
自動販売機から水のペットボトルを取り出していると、後ろから声をかけられた。振り返ると、上品な笑みを浮かべた年配の女性が立っている。
「いや……私は……」
「増田さん! 検温の時間ですよ」
言葉に詰まっていると、看護師さんが現れた。
看護師さんは私に会釈して、増田さんを連れて行く。
二人は、自動販売機がある談話スペースを出て右に曲がった。
私も談話スペースの出入り口まで行き、二人の姿を目で追う。二人は四つか五つ先の、右側の部屋へ入って行った。
「あの増田さんって人、誰彼構わず山が見えるか聞いて回ってるのよ。困った人ねぇ。自分が北側の大部屋だからって!」
談話スペースの中にいたらしい坂口さんが寄って来て、大きな声でそう言った。そのまま世間話を始める。
入院時、大部屋がいっぱいで、やむを得ず個室に入った私と違い、坂口さんは希望して個室に入院したらしい。
誰彼構わず個室か大部屋かを聞いて回り、部屋を基準に態度を変える坂口さんも、十分困った人だ。
尋常ではない腹痛で病院を受診し、虫垂炎の緊急手術をしたのは三日前。
料金割高の個室しか空いていないと言われた時は、正直ほっとした。
個室は病院の東側。家計への打撃は術後の腹部より痛いが、病院の怖い噂とは無関係でいられる。
見山病院の怖い噂、それは「北側の病室からナキ山を見ると、山に呼ばれて死ぬ」というもの。
この辺りに住んでいる者なら一度は聞いたことのある噂だ。
病院に怪談は付き物だが、私はこの噂を薄気味悪く感じていた。
そろそろ坂口さんとの会話を切り上げたい。学校帰りの娘が来る頃なのだ。
娘の真弥の耳には、病院の噂を入れないようにしてきた。好奇心旺盛で怪談好きな真弥が、この話に興味を持つことを私は恐れていた。
「お母さん! お母さんの部屋から……あ、こんにちは」
正面に見えるエレベーターの扉が開き、ランドセルを背負った真弥が出てきた。私を見つけると興奮した様子で駆け寄って来たが、坂口さんを見て挨拶をした。
「真弥、病院では静かにね」
「あらぁ、真弥ちゃんて言うの? 挨拶できて偉いわねぇ。何年生?」
「四年生です!」
「そう。学校楽しい?」
「はい!」
坂口さんが大きな声で話しかけ、真弥が元気いっぱいに返事をする。
周囲の視線が痛い。
「真弥、お母さんの部屋に行こっか」
「うん。 あ! あたしもジュース飲みたい」
真弥が、私が持っているペットボトルを見つけた。
「じゃあ自動販売機で……」
「私も何か買って帰ろうかしら」
自動販売機まで移動しようとすると、坂口さんもそう言ってついてくる。
……このまま部屋までついてきそうだな。
「あ、売り切れだぁ」
真弥が残念そうな声を上げた。
飲みたいジュースが売り切れだったようだ。
これはチャンス。
「向こうにも自動販売機があるから見に行く?」
「うん!」
その自動販売機とは、先ほど増田さんと看護師さんが歩いて行った廊下の突き当りにある。
「じゃあ私は自分の部屋に戻るわね」
思った通り、大部屋嫌いの坂口さんはそう言った。
「ええ。じゃあまた……」
「市川さん」
坂口さんが私を呼ぶ。
「ナキ山は病室からしか見えないから、大部屋には入っちゃダメよ」
そう言うと坂口さんは行ってしまった。
廊下を歩き出すと、真弥が話しかけてきた。
「ねえお母さん、この病院の怖い話知ってる?」
ギクッとした。
恐れていたことが……。
それに、今私たちがいるのは北側の病室が並ぶ廊下だ。ここでその話題はまずい。
「真弥、怖い話って苦手な人もいるでしょう?」
「うん」
「ここだと聞きたくない人にも聞こえちゃうから、その話は後でお母さんの部屋でしよう」
「わかった!」
よかった。
「でも、これだけ教えて」
真弥が、先ほどまでよりも小さな声で言う。
「お母さんの部屋から、山は見える?」
「お山が見たいの?」
真弥の質問に私よりも先に誰かが答えた。
見ると、三歩ほど先の右の部屋から、増田さんが顔を覗かせている。
「ここから見えるわよ。本当よ」
「見たい!」
「あ、真弥ダメ!」
増田さんの言葉を聞き、真弥が駆け出してしまった。
点滴を連れた私は動きが鈍く、口での制止しかできない。
「ダメよ!真弥」
「ちょっとだけ!」
真弥は部屋の中へ飛び込んで行く。
慌てて部屋の前まで行くと、真弥はすでに正面の窓の前で外を見ていた。
私は、真弥を連れ戻そうと部屋に踏み込んだ。
一歩、二歩。
両足が部屋の中に入った瞬間、そこに山が現れた。
え……嘘……。
私の足が止まる。
今の今まで無かったはずの、こんもりとした緑色が、正面に立つ真弥の向こうに見える。
そんなはずは……。
私は後ずさりして廊下に出た。すると、緑はふっと消え去り、五階の窓は空の色だ。
病院の北に山など存在しない。
だからこそ私は、病院の噂を気味悪く思っていた。
無い山を見て、その山に呼ばれるなんておかしな話が、人々に浸透していることが薄気味悪かった。
坂口さんの声が蘇る。
『ナキ山は病室からしか見えないから……』
病室からしか……。
「お母さん!」
私の異変に気づいた真弥が戻ってきた。
「お母さん大丈夫?」
「……真弥、部屋に戻ろう」
「うん……」
その時、増田さんと目が合った。
私はすぐに視線を外し、真弥を連れて、来た道を引き返す。
手が震えている。
「真弥……山は見えた?」
私は我慢できず、真弥に聞いてしまった。
「え……ううん。見えなかった」
見えなかった。真弥には見えなかった。
目が合った増田さんは満面の笑みだった。
『あなた、お部屋の窓からお山見える?』
あなたには、見える?
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