0人が本棚に入れています
本棚に追加
石大 和香奈
血圧計と患者の腕に集中する。
それでも視界の端に、アレが見えている。
見山病院の入院患者にしては大変珍しいことだが、この患者は北側の窓からの景色を大層気に入っている。
今も窓側のベッドで、ベッドも窓もカーテンを開け、外を見ている。
この患者と私とでは、窓から見える景色が違う。
見山病院での勤務初日、先輩看護師からナキ山の噂を聞かされた。
この辺りでは有名な噂だが、病院の方針として、決して認めてはならないと。
話を聞いた時、病院開設時に地域住民とトラブルでもあったのだろうかと思った。
見山病院で山を見たら死ぬなんて噂、見山医院長への嫌がらせとしか思えなかったからだ。
しかし、その考えはすぐに否定されることになる。
働き始めて半月ほどのある夜、巡回中に北側の大部屋で、初めてアレを見た。
その部屋に入院している男性患者の一人が、数日前から「山が見える」と怯えていたのは知っていた。
窓側のベッドの様子を見た後、窓にかかるカーテンの隙間から、何となく外を見た。
正面に、本来そこには無いはずの山が見えて、とても驚いた。暗闇の中に白く浮かび上がっている。
驚いて言葉を失っていると、いつの間にか隣に、山に怯えていた患者が立っていた。
本人の強い希望により処方された睡眠剤で眠っていたはずなのに。
「山が……」
彼は、窓の外を指差した。
「山が呼んでる」
「何か……」
聞こえるんですか、と続ける前に、窓の外の山が動いていることに気がついた。
四つの尾根が上に伸びてきて、その下から何か出てくる。しかも、緑色が段々抜けて、山は白くなっていく。
最初、蛇の頭が五つ出てきたのかと思ったが、違った。蛇の頭に見えたものが五つとも、天に向かって真っすぐ伸びて全体が見えた時、思わず「あっ」と声が出た。
それは手だった。
巨大な右の掌がこちらに向けられている。緑色はすっかり抜け落ちて、血の通わない人肌の色になっていた。その手がゆっくりと前に倒れてくるのを見て、私は咄嗟に目を逸らした。
「山が呼んでる」
もう一度呟いて、その患者は倒れた。
その後すぐに応援を呼び、処置が施されたが、彼はそのまま息を引き取った。
急変があり得る病状ではあった。
だが、彼が山を見ていたことを知る者たちは「ナキ山を見たから呼ばれて死んだ」と噂した。
私は噂を教えてくれた先輩に見たことを話した。
「石大さん、その噂は認めないようにと……」
「ただの噂じゃありません! 私本当に見たんです! 山に呼ばれるって……本当は……」
「やめなさい」
「本当は、山じゃなくて……!」
「知ってるわ」
「……え?」
「いい? 一度見たら、二度と山には見えないから、今後北側の病室では、できるだけ窓の外を見ないようにするのよ。じっと見たり、長時間見たりしなければ大丈夫だから。でも、患者さんに不自然に思われないようにだけ気をつけてね」
「そんな! 患者さんにも伝えて……」
「伝えたらどうなると思う?」
「え……」
本当のことを伝えて噂が広がれば、興味本位で最後まで見ようとする者が必ず現れるだろう。それでは被害を拡大するだけだ。
私はそれ以上何も言えなかった。
ナキ山。
名も無き山、人が亡くなる山。
でも本当は山じゃない。
あれは拳だ。親指を握り込んだ右の拳の掌側が、上半分だけ見えている。
泣き山や鳴き山は間違いだ。
声で呼ぶんじゃない。手招きで呼ぶのだ。
先輩が言った通り、私にはもう山に見えることはない。
北側の病室の窓からは、手招く青白い手が見える。
言われた通り、直視しないよう気を付けている。
この五年間ずっと。
「あなた、お山見える?」
外を見ていた患者から、ふいに話しかけられた。
「いいえ増田さん」
私は彼女に返事をする。
「山なんて無いですよ」
(終)
最初のコメントを投稿しよう!