石大 和香奈

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石大 和香奈

 血圧計と患者の腕に集中する。  それでも視界の端に、アレが見えている。  見山病院の入院患者にしては大変珍しいことだが、この患者は北側の窓からの景色を大層気に入っている。  今も窓側のベッドで、ベッドも窓もカーテンを開け、外を見ている。    この患者と私とでは、窓から見える景色が違う。  見山病院での勤務初日、先輩看護師からナキ山の噂を聞かされた。  この辺りでは有名な噂だが、病院の方針として、決して認めてはならないと。  話を聞いた時、病院開設時に地域住民とトラブルでもあったのだろうかと思った。  病院でたら死ぬなんて噂、見山医院長への嫌がらせとしか思えなかったからだ。  しかし、その考えはすぐに否定されることになる。  働き始めて半月ほどのある夜、巡回中に北側の大部屋で、初めてアレを見た。  その部屋に入院している男性患者の一人が、数日前から「山が見える」と怯えていたのは知っていた。  窓側のベッドの様子を見た後、窓にかかるカーテンの隙間から、何となく外を見た。  正面に、本来そこには無いはずの山が見えて、とても驚いた。暗闇の中に白く浮かび上がっている。  驚いて言葉を失っていると、いつの間にか隣に、山に怯えていた患者が立っていた。  本人の強い希望により処方された睡眠剤で眠っていたはずなのに。   「山が……」  彼は、窓の外を指差した。 「山が呼んでる」 「何か……」  聞こえるんですか、と続ける前に、窓の外の山が動いていることに気がついた。  四つの尾根が上に伸びてきて、その下から何か出てくる。しかも、緑色が段々抜けて、山は白くなっていく。  最初、蛇の頭が五つ出てきたのかと思ったが、違った。蛇の頭に見えたものが五つとも、天に向かって真っすぐ伸びて全体が見えた時、思わず「あっ」と声が出た。  それは手だった。  巨大な右の掌がこちらに向けられている。緑色はすっかり抜け落ちて、血の通わない人肌の色になっていた。その手がゆっくりと前に倒れてくるのを見て、私は咄嗟に目を逸らした。 「山が呼んでる」  もう一度呟いて、その患者は倒れた。    その後すぐに応援を呼び、処置が施されたが、彼はそのまま息を引き取った。    急変があり得る病状ではあった。  だが、彼が山を見ていたことを知る者たちは「ナキ山を見たから呼ばれて死んだ」と噂した。  私は噂を教えてくれた先輩に見たことを話した。   「石大さん、その噂は認めないようにと……」 「ただの噂じゃありません! 私本当に見たんです! 山に呼ばれるって……本当は……」 「やめなさい」 「本当は、山じゃなくて……!」 「知ってるわ」 「……え?」 「いい? 一度見たら、二度と山には見えないから、今後北側の病室では、できるだけ窓の外を見ないようにするのよ。じっと見たり、長時間見たりしなければ大丈夫だから。でも、患者さんに不自然に思われないようにだけ気をつけてね」 「そんな! 患者さんにも伝えて……」 「伝えたらどうなると思う?」 「え……」  本当のことを伝えて噂が広がれば、興味本位で見ようとする者が必ず現れるだろう。それでは被害を拡大するだけだ。  私はそれ以上何も言えなかった。  ナキ山。  名も無き山、人が亡くなる山。  でも本当は山じゃない。  あれは拳だ。親指を握り込んだ右の拳の掌側が、上半分だけ見えている。    泣き山や鳴き山は間違いだ。  声で呼ぶんじゃない。手招きで呼ぶのだ。  先輩が言った通り、私にはもう山に見えることはない。  北側の病室の窓からは、手招く青白い手が見える。  言われた通り、直視しないよう気を付けている。  この五年間ずっと。 「あなた、お山見える?」  外を見ていた患者から、ふいに話しかけられた。 「いいえ増田さん」    私は彼女に返事をする。 「山なんて無いですよ」 (終)
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