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ぼくはつぶやいた。
「父さんと母さんは、わりと期待してると思います。そう考えると、少し気が重いです」
勇飛さんはぼくの肘から手を離すと、
「りくは心配するな。子どもを授からないまま、二人きりで生きていく夫婦はたくさんいる。お義父さんとお義母さんには、折を見て話してみよう」
少しだけ潤んだ灰色の瞳が、優しく柔らかに、ぼくを見つめた。
勇飛さんは、本当はしたいんじゃないかな、と思うときがある。
ときどき、ぼくの眠る寝室の扉の外で、勇飛さんが黙って立っていることを、ぼくは知ってる。でも、中に入ってはこない。
勇飛さん、と名前を呼んだら、あの人は入ってくるかもしれない。そう思うと、とてつもなく愛おしくて、とてつもなく恐ろしくなるぼくだ。
だから、中から名前を呼んだことは無い。
そんなことをぼくがつらつら考えていると、勇飛さんはソファから腰を上げた。キッチンに向かい、冷凍庫からアイスを取って戻ってきた。バニラアイス。
おっきな手で華奢なスプーンを握って、一箱六個入りの、小さなカップのバニラアイスを一つ頬張っている。ぼくは思わず言った。
「勇飛さん、ぼくにも一口」
「ん? ほら」
ひょい、と放り込んでくれるアイスの冷たさ、その鋭利な甘さ。幸せ。
勇飛さんはぼくの口の中からアイスのスプーンを引き抜くと、またバニラアイスに、それをさくっと刺した。
「カチカチ」
そう言って真面目な顔でアイスを掬おうと頑張る勇飛さん。
「これ、新幹線のアイスくらい固いな」
「え、家庭用冷凍庫でそれはなくないですか?」
と、ぼくがつっこんでいる間に。勢い余ったのか、掬ったアイスがぽーんと飛んで、居間の白い壁にべちゃっとくっついた。ぼくは思わず笑った。
「はは、馬鹿力!」
勇飛さんは慌てている。ティッシュボックスから一枚引き抜いて、アイスがぶち当たった壁に飛んでいった。アイスはてろりと落ちて、床も汚している。勇飛さんは大きな体をかがめて壁と床をごしごし拭きながら、ぽつりと、
「まさか飛ぶとは……。というか、こういうコント、あったな。『中川家』で」
「え、勇飛さん、中川家さん好きなんですか? うわ、ぼくもです! いっしょ」
「YouTubeでチャンネル登録してて、新しいコントが上がるとすぐに観てるぞ」
「いっしょに観たい!」
「ああ、観よう。中川家、天才だよな」
「ですよね」
「たまに狂気じみてるのが、またいいんだ」
うんうんうなずくぼく。勇飛さんはアイスでべちょべちょになったティッシュペーパーを持って戻ってくると、それをいったんキッチンに捨てに行った。手を洗って戻ってきて、ぼくの隣に腰を下ろす。
なんだかうれしそうに、にこにこしていた。そんなふうに笑うと、強面ながら可愛い。
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