*九

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*九

 それからしばらく、僕は周りから遠巻きにされながらだけれど穏やかに学校に通うことができた。  相変わらず教室などで親しく話しかけてくるやつもいないし、昼食を一緒に食べるようなやつもいないけど、その代わり朝から放課後まで逐一僕の言動の上げ足を取ったり、休み時間になったら耳を塞ぎたくなるような悪口を言ってきたりするようなやつもいない。  独りぼっちなことには慣れているから、悪意を持って接してくるやつがいない学校はすごく快適だ。  でもそんな平穏は、あっけなく終わりを告げる。  井口達が停学になってから数日後の雨の昼休み、僕は教室でひとりサンハウスから持たされた弁当を食べていた。  弁当はごく普通のおにぎりと唐揚げと卵焼きとおひたしなんだけれど、僕はこのラインナップが大嫌いだ。唯一食べられるのは付け合わせのプチトマトぐらいだし、なにより千弥と一緒じゃないから美味しいどころか味もしないからだ。  ああ、これじゃあまたお腹が減っちゃうな……どこかで小鳥か何かの血をこっそりと吸えたらいいんだけれど……そうぼんやりしながら弁当をつついていたら、「ねえ、ちょっと」と、声をかけられた。  顔をあげると、栗色のボブヘアーの女子生徒が怒りのこもった目で僕を見おろしている。  彼女はたしか、僕がこの前血を見て興奮してしまった……誰だったっけ? 「なに?」 「あんたのせいであいつが停学になったんでしょ?」 「あいつって、誰?」 「いつもあんたに絡んでたやつよ。あんたに絡んでたのをあんたが施設の先生にチクって、井口を停学にさせたんでしょって言ってんの!」  あいつって井口のことか……ということは、彼女はあの例の穂乃花とかいう子なのか。  穂乃花は怒りに震えた目で僕をにらみ付けていて、その姿を友達らしい数人の女子生徒がはらはらした表情で「穂乃花、やめなよ」と小声で制している。 「井口君の停学が僕のせいだって言うの?」 「それ以外に何があるって言うの?! あんたが先生にチクったからじゃない! それに、もとはと言えばあんたがあたしの方見て興奮してたのが悪いのに!」  井口も、この穂乃花も、揃いも揃って被害者意識が歪んでいる。そもそもは僕が井口から理不尽な目に遭わされていて、その挙句に僕に暴力を振るってきたことが原因なのに。  そう反論しようと口を開きかけたのだけれど僕をにらみ付けていた穂乃花の目には大粒の涙が浮かんでいた。 「井口、あんたがヘンなことしたせいでおかしくなっちゃったんだからね‼ あんたが井口を壊したんだ‼」  僕があの日井口にしたのは出血を見て本能的に襲い掛かってしまったことだ。吸血はほぼしていなかったはずなのに、一体何が彼の身に起きたというのだろうか。 「どういうこと? 井口君が壊れた、って」 「とぼける気なの?! 意識不明にしておいてさぁ!!」  僕はただ噛みついただけだったはずで、血は吸っていない。それなのに、井口の意識がなくなってしまったって……?  ――もしかして……僕は吸血に至らなくともその前段階で起きてしまう、とある事象があることを思い出し愕然(がくぜん)としていた。  吸血鬼が吸血をする前に、まず噛みつかれると吸血鬼の唾液に大量に触れることにより意識が混濁して麻酔が利いたように動けなくなる。それはほんの数秒もないほどの時間だ。  動けなくなったのを見計らって吸血鬼は相手の首筋に牙を突き立て、吸血を始めるのだけれど、そうすると吸血鬼が血を体内に取り込むほどに相手の身体には激しい快感が走ると言われている。  しかし僕は井口に牙を立てることはできなかったけれど数秒よりはるかに長く彼の首筋に噛みついていたから、それにより井口は意識不明になっているのかもしれない。要するに吸血に失敗の余波を受けてしまったのだろう。  だけどそれをいま彼女に話したところで何になる? 結局僕が悪いと罵られるだけだ。  口をつぐんでうつむく僕にどこからか何かが投げつけられてきた。顔をあげると、穂乃花が片方の上履きを投げつけた所だった。 「人殺し!! お前が消えろ!!」  それからも何かをつかんで投げつけようとしてきた穂乃花を周りの生徒たちが止めはしてくれたけれど、誰ひとり僕に慰めの言葉をかけてくれない。みんな遠巻きにして、気味の悪い化け物を見てしまったかのように僕から目を反らす。  穂乃花はそのまま保健室へと連れて行かれ、教室内に居た堪れないざわめきが残る。  誰ひとり味方がいない学校と言う箱庭の中に化け物の僕がい続けることは、もう無理なのかもしれない――僕はそう思い、のろのろと弁当を片付け、カバンを持って黙って教室を後にした。誰一人、止めも咎めもしなかった。  傘もささないで僕は足早に学校からの坂を下って冷たい秋の雨が容赦なく僕から体温を奪っていくのも構わず、僕はただ歩いて行く。  千弥はもう大丈夫だと言っていた。きっとそうなるはずだった。でも――そもそも僕は、箱庭の平穏を乱した異端な存在なのだ。  その上、千弥が彼らを停学に追い込んだりもしたし――僕を取り巻く状況は改善どころか悪化しているのではないだろうか?  そう考えが至ったその時、突然背後から僕は突き飛ばされ、雨で濡れたアスファルトの上に転がった。  何が起きたのかとずぶ濡れになりながら顔をあげると、何かが僕の上に馬乗りになり、頬を殴りつけてくる。衝撃とともに自分の血の味が口の中に広がっていく。 「小鹿ぁ! お前のせいで俺らの人生めちゃくちゃじゃねぇかよ‼ 井口も半殺しにしやがって! ふざけんじゃねぇぞ!!」 「知らない、僕は何も……!」 「知らねえわけねーだろ! お前んとこのヤツが俺らのやったことが録音された音声データを警察に突き出して裁判沙汰にしてやるって言うから、親と謝ってやったのに、無期限の停学にするってどういうことだよ!!」  録音、音声データ……その単語と共に浮かんできたのは、この前部屋で見つけたヘンなマイクのような部品――もしかして、あれって…… 脳裏に過ぎった考えといま言われた言葉の意味が一致して、僕は驚きで言葉が出ない。千弥がどうして即日で彼らを停学にできたのか、それだけでなくどうして今までのイジメも知っていたのかがわかったからだ。 (千弥は、ずっと……僕の行動を盗聴と録音をしていて……でもそれは、僕のために……)  僕の上に馬乗りになっているのはどうやら井口と一緒に停学になった西田らしく、血走った目が僕をにらみつけている。  確かに僕が……というか、恐らく千弥が取った手段は、彼らの人生を狂わせたかもしれないけれど、そもそもは自分たちが僕を理不尽にイジメていたことが原因の根幹にあるのに、こいつも被害者意識が歪んでいる。盗聴、もとい、録音はイジメの証拠をつかむための常とう手段だ。ただ、僕がそうしているのを知らなかっただけで。 「知らな……っが、っは……だいたいそっちが……」  そっちが悪いんだろう、と反論したかったけれど、僕は西田に上に乗られた上に殴られ続けて何も言い返せない。  なんで僕ばかりがこんな目に遭ってしまうんだろう。痛い、悲しい、ツラい、誰か……千弥、助けて……連続で頬を殴られたり襟首をつかまれて揺さぶられたりして意識が朦朧としていく。 (……血が……欲しい……血……) 朦朧とする意識の中を、じわじわと舌先に感じる鉄の味が僕の理性を(むしば)んでいくのを止められないまま目の前が暗くなった。  どれぐらい殴られていただろうか。殴っていた西田が「ックソ、もう二度とナメた真似するんじゃねーぞ」と呟き、締め上げられていた襟首が緩んだ。  水溜りの上に放り出されたその刹那、僕は自らの力で体を起こし、まだ降りていなかった西田の肩に掴みかかった。ほとんど反射運動に近い動きだ。 「ぅお?! なんだこいつ!」  起き上がった拍子に体勢が崩れ、押し倒された西田が声をあげて僕を引き剥がそうと肩をつかんで押し返そうとする。しかしそれはびくともせず、西田の肩をつかんだ指先は食い込んだように剥がれない。  自らの血の味が、意識と理性を攪拌(かくはん)していく。 「血……血が、欲しい……」 「何言ってんだお前! やめろぉ!」  雨の降りしきる路上でクラスメイトだった西田を押し倒し、ためらうことなくその首筋に喰いつく。今回はちゃんと牙はすぐに彼の首筋と血管に穴を空けることができ、程なく勢いよく口中に新鮮な血液が流れてくる。 「ぎぃあぁぁぁ!!」  ああ、美味しい……単なる鉄の味の中にも若干の旨味を感じながら、僕はひたすらに彼の血を吸い上げる。腕の中の西田は言葉にならない悲鳴をあげて震えていたが、それも次第に小さくなってじきに途絶えた。  どれぐらいそうしていただろうか。快感とも満腹とも言えない不思議な高揚感を覚えながら腕の中の西田を解放すると、彼は音を立てて地面に転がった。  口元に残る血の名残を手の甲で拭いながら立ち上がると、マネキンみたいに白い肌になった西田が転がっている。 「……っは、あぁ……バカなやつ……」  ほんのついさっきまで自分たちが散々暴力をふるっていたくせに、反撃されたらあっさり噛みつかれるなんて。苛立たしくて腹立たしく、忌々しささえ覚えながら僕は冷たく転がる彼を見下ろす。  血の気のなくなった西田を眺めながら、僕は段々と言いようのない悲しさを覚え視界がにじんでいくのが止められなかった。  とうとうやってしまった。僕は本当に人殺しだ。もうサンハウスにはいられないし、千弥にだってさすがに拒絶されるに決まっている。 「ああ、もうダメだ……どうしよう、千弥……」  雨に打たれながら路上にたたずんで子どものように泣きじゃくって途方に暮れていると、どこからか僕を呼ぶ、聞き覚えのある声が段々と近づいてくる。 「零ー? こんなとこにいたの? 学校飛び出して行ったみたいだから捜し、に……」  近づいてくる声に僕は凍り付いて音の方に振り返ると、その声の主と目が合った。 「零……これは……」 「千弥……?」  なんで彼がこんなところにいるんだろう。これももしかしてさっきの盗聴と関係あるのかな……よりにもよって、彼に見られてしまうなんて……  最も知られたくなったことを、最も知られたくなかった相手に見られた絶望感で動けなくなっている僕の手を握って、千弥は突然駆けだした。  駆けて行く僕らを雨が隠すように降りしきり、残してきた西田の上にも降り注いでいた。
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