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*十
どこに行くの? そう訊きたくても声もかけられない程のスピードで千弥が僕の手を牽いて駆けて行く。
足許には泥水が跳ね、頭も体もすべてが雨に濡れているのも構わず千弥は僕の手を牽いてどんどん猥雑な感じの通りの奥へと進む。とても制服姿で来ていい場所には見えないところなのに、千弥の足は止まらない。
随分と走ってきて脇腹が痛くなり始めた頃、僕は千弥と一緒にうらぶれた一軒のホテルに入った。
こんな所テレビとかマンガとかで見聞きするだけで来たこともない。ましてや千弥となんて。
戸惑いが隠せない僕を連れ、千弥は建物の三階の奥にある部屋に入っていく。
部屋の中は六畳ほどのつるりとした床に部屋いっぱいの大きなベッドがあって、壁には大画面のテレビが掛けられている。ベッドに向かって右にはまたドアがあって、すりガラスがはまっているからもしかしたら風呂かもしれない。
ぼうっとそんなことを考えていたら、僕と手を繋いでいた千弥から引き寄せられて腕の中に納まっていた。
千弥の腕の中はいつもと同じようにあたたかで、じわじわと気が緩んで視界が潤んで揺れていく。気づけば僕はしゃくりあげながら泣いていた。
「どう、しよ……僕、西田、のこと……殺し、ちゃ、った……」
冷静になって急激に迫ってきた現実に僕は震えと涙が止まらない。
僕は、さっき同級生の血を吸って殺してしまった。真っ白に血の気がなかった西田の顔が目の前にありありと浮かび、僕は自分のしてしまったことに改めて恐怖を覚えてぎゅっと千弥を抱きしめる。
千弥はそんな僕を拒んで突き放すこともなく、いつものようにやさしく抱きしめ返してくれた。
「……零は悪くない。あれは、零のせいじゃない」
「でも、僕は、西田を……」
「零は、正当防衛をしたんだ。先に襲ってきたのはあいつなんでしょ?」
だから大丈夫、と言いながら千弥が僕の頬に触れて涙を拭う。覗いてくる目も僕と同じように濡れていて微笑んですらいるのに泣いているように見える。
変わりなくあたたかで、僕が傷つくごとにやさしく甘くなっていく千弥。本当に許されないことをしてしまったはずなのに千弥がいてくれたらすべてが許される気がしてしまう。そんなことは絶対にないのに。
「大丈夫、俺がいるからね」
サンハウスに来た時からずっと千弥がかけてくれる言葉に恐怖に曝されていた心が緩んでいく。緩んだ心は涙を零してまたあふれさせる。
ありがとうとごめんなさいを何度も繰り返しながら、僕は年端のいかない子どものように泣いた。
千弥といると安心するからか僕は出会ったばかりの頃に戻ってしまう気がする。小さくて何も――自分がこんなにも血を前に理性を失くすとか――知らなかった頃のように。
散々泣いて落ち着いた頃、雨に濡れたままだった服を脱いで部屋のエアコンで無理矢理乾かすことにした。
僕も千弥も下着だけの姿になったのだけれど、そうなると僕が身体に自ら付けた傷が露わになってしまう。腕だけでなく足とか二の腕の裏とか服に隠れて見えなくなるところにはいくつものひっかき傷や噛んだ痕がある。
傷を見て小さい子が驚かないようにするために、僕はいつの頃からか年中長袖を着て、サンハウスでの入浴を最後の方にするようにしていたのもあって、ここまでひどいとは千弥は思っていなかったようだ。僕の姿を見るなり千弥はハッと息を呑んで凍り付き、やがてまた目にいっぱいの涙を浮かべ抱きしめる。
本当なら見られたくなかったから僕は脱いでしまっているのに今更のように手で体を覆うようにして隠そうとしたけれど、その隙も与えてもらえなかった。
千弥は小さなちいさな声で何か謝るような言葉を口にしていたけど声になっていなくて、それがより僕に居た堪れなさを覚えさせる。
「ああ、零。なんて言えばいいのか……」
やっぱり千弥はこの体の傷は学校での嫌がらせのせいだと思っていて、それに止められなかったことをいまでも悔やんでいるのか、僕の姿を見て一層泣いて謝ってくる。
だから僕は抱きしめられたままで違う、と言う代わりに首を大きく横に振った。
「大丈夫、千弥のせいじゃない……この前も言ったじゃん」
「そうだけど……まさかこんなに……。それでも、俺は関係ないって言うの?」
なんて言えばいいんだろう。どう言えば千弥に受け入れてもらえうんだろう。適切な言葉を捜してぐるぐると思考回路を巡らせてみても、ぴたりとあてはまるようなものは出てこない。
「あのね千弥、僕、実は……」
僕、実は……その先をどう伝えればいいのだろう。実は吸血鬼なんだ、千弥の血が欲しんだ、そう言ってしまったら……千弥は僕にどんな顔をするだろう。わからなくて、怖くて、僕はただ千弥の背を抱きしめる。
「零、俺らは親がいないけれど、家族がいないわけじゃないよ。ちゃんと俺も、みんなもいる。だから、ツラかったらいつでも何でも言ってよ」
背中越しに響く千弥の声はやわらかくて失いたくないほど大切で愛しい。
――愛しい、その言葉が脳裏に過ぎって僕はハッとする。そうだ、僕は千弥が愛しい……好きなんだ、と。だから彼に拒まれることも失うことも怖くて仕方なくて、本当のことを言えない。
だって僕が愛しくて好きだと思う相手である千弥は、きっと僕の本能が抗えないほど魅惑的な血を持っているから、彼の血を見て興奮してしまうのだろう。
僕はそれをこの先もずっと求めてしまい、彼をさっきの西田のようにしてしまうか、もしかしたら僕と同じ吸血鬼にして人生を壊してしまって拒絶されるかもしれない。
千弥をなくしたくないし、正体を知られて拒まれたくもないし。迷惑もこれ以上かけたくない。だからと言って僕が自らを傷つけることの原因が千弥にあるとも思って欲しくない。
無茶苦茶なことを思っている自覚はある。矛盾だらけな自分の考えに苛立たしさを覚えて自らを傷つけたい衝動が走るのを、ただ唇を噛んで、堪える。
ぐちゃぐちゃな気持ちで苦しい僕は、傷だらけの体を愛しい人に抱かれながらひっそりとまた泣いた。
「……ごめんなさい、千弥」
ようやく絞り出せた言葉千弥はうなずいて、そっと僕の襟足を撫でてくれる。それだけで僕はもう充分にしあわせだと思うようにした。そう思わなくてはいけないんだ。
これ以上は望んではいけない……そうでないときっともっととんでもないことを引き起こしてしまう。もうこれ以上、僕のせいで千弥が泣く姿を見たくない。
「少しは落ち着いた?」
「うん……ありがと、千弥」
じっとしばらく抱き合ってからそっとお互いの身体を離した時、右の手首のところにできていた傷口が開いて血が滲んでいた。
あ、血が……と思っていつものクセで無意識にそれを舐めてしまった次の瞬間、突然心臓が跳ねるように鼓動して僕は床に膝から崩れ落ちた。
治まっていた血への渇望がうっかり自らの血を口にしてしまったために思いがけない形で蘇り、突然呼吸が乱されて視界が揺れる。床についた指先が急激な変化に耐えるように震えて止まらない。
「零? 大丈夫?」
千弥がぼくの肩に触れて抱き起そうと触れようとしたのを、僕は払い除けようとしたはずみで掴んでしまい、勢いそのまま床に押し倒していた。
突然のことで固まっている千弥の怯えた目には理性が崩壊し始めている僕の醜い姿が映し出されている。
ああ、ダメだ、このままでは……崖っぷちに追い込まれた理性が悲鳴をあげて僕に踏み止まるように警告をするけれど、もう耳には届いていない。
「……零?」
「千、弥……僕……ごめ、ん……」
振り絞るように呟いた言葉は大きく開かれた僕の口に再び呑み込まれるように吸い込まれ、そのまま千弥の首筋に刻み込むように宛がわれて牙とともに突き立てられようとしていた。
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