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*十一
「零、私たちは吸血鬼だからね、人間を好きになっても悲しいだけだよ。好きな人の血は何よりも美味しいし、美味しいものはお腹いっぱい食べたくなるだろう? そうするとね、たくさんその人の血を吸ってしまって、その好きな相手もまた吸血鬼にしてしまうかもしれないからね。残念だけどね、人間は我々のような血を吸う化け物は嫌いなんだ。最悪の場合相手を殺してしまうような、自分たちの命を脅(おびや)かす存在だと思われているからね。だから絶対に、人間を好きになっちゃいけないよ、零」
脳裏に過ぎる古い記憶の中の両親の言葉に、千弥の肌に突き立てようとしていた牙が停まる。
(千弥は、そんな化け物は嫌い――化け物……僕は、人間じゃない、化け物だ)
脳内に響く言葉にほんのわずかにためらいが生じた瞬間、僕は我に返った。
目の前には僕の抑えきれなかったよだれにまみれた千弥の首筋があったけれど、辛うじて歯形はついていないし、意識もあるようだ。
よかった、吸ってない……そう思った途端、僕は身体中から力が抜けた。
だけど千弥の身体は凍り付いたままで、見開かれた目には情けない顔をして一先ずの安堵を感じている僕が映し出されている。僕を見上げる千弥の顔はまさに化け物を見てしまった者のそれだった。
吸血している、してないにかかわらず、すべてがもう遅いのが一目瞭然だ。僕が千弥に襲い掛かって血を吸おうとしたという事実に変わりはないことだから。
重たい沈黙が僕らの上に圧し掛かり、二人の口を塞いでいく。
息さえできないような沈黙を破ったのは、「……ごめん」という僕の小さな蚊の鳴くような声だった。
それを合図にするように僕と千弥はゆるゆると体を離し、乾かしかけていた服を身に着ける。まだ全然乾いていないけれどそうする以外にない。
僕らはそれぞれの荷物を手に重い足取りでホテルを後にした。
サンハウスまでの帰り道、僕らはどちらも口を聞かなかった。何かを話そうにも何から話したらいいかわからなかったからだ。千弥は何か言いたげにしていたけれど、僕は罪悪感で顔も見られなかったから。
その内に僕らはサンハウスに着いていて門をくぐって中に入った。
サンハウスでは先生たちが大騒ぎしていて、僕らの姿を見るなり何かを問おうと詰め寄ってくる。
「零! あなたクラスメイトともめて学校飛び出してどこ行ってたの?!」
「顔も制服ぐしゃぐしゃじゃないの、何があったの? またケンカ?」
「ああ、大丈夫。俺が理由を聞いてるんで……」
詰め寄ってくる先生たちを千弥が制している隙に、僕はするりと身をかわして二階の部屋へと向かう。
「零!」と、千弥が僕を呼ぶ声がしたけれど聞こえていないふりをしてそのまま二階の部屋へ閉じこもった。
「零、晩ごはん食べない? トマトポタージュ作ったんだけど」
「……ごめん、食べたくない」
千弥の声がドア越しに晩ごはんを食べないかと言ってきたけれど、とてもそんな気にはなれないし、すでに僕の身体は不本意ながらも西田の血を吸って満足感は得ていたので普通の食事は必要なかったから、冷たい言い方ではあったけれど断った。
千弥はそれ以上何も言わず、黙って去っていった。気配が去っていったことに僕は思わずホッとしてしまった。
そうして静かになった部屋の中で、僕はひたすらに今日起こしてしまったことを振り返っては悔やんだ。
ひとつは西田の血を吸って……殺してしまったこと。はっきり確かめたわけではないけれど、状況的に殺しているに違いない。
もう一つは、とうとう千弥に襲い掛かって血を吸おうとしてしまったことだ。
愛しいと思っているはずの相手に対してしていい事じゃないのはわかりきっていたはずなのに、僕は本能が発する欲望に逆らえなかったし抑えきれなかった。
西田を殺してしまったことは、きっと世間に知られるのも時間の問題だろうし、何にしてももう僕がサンハウスにいられる可能性はもうないと言ってもいい。僕にはここにしか居場所そのものがこの社会にないのに……自らダメにしてしまった。
いままで幾度となく絶望感を覚えてきたことはあるけれど、今回はレベルが違う。一切の希望の光が見えない真っ暗な沼の底に放り込まれたような、抜け出せそうにない感覚がある。八方塞がりよりももっと密閉されて空気さえないような苦しさも伴っている気がする。だって僕は、希望の光である千弥に自ら牙を向けたのだから。
(――もうダメだ……僕はここにいちゃいけない……)
僕はベッドから起き上がり、壁にかけている制服のブレザーのポケットからいつものカッターナイフを取り出してむき出しにした刃をすでに傷だらけの左腕に宛がった。
助けて欲しいけれどこんなところを見せたらきっとまた彼は自分を責めてしまうし、一層僕を甘やかすだろう。
千弥から愛されたい。でもそう望んでしまったら僕はまた彼に襲い掛かってしまうだろうし、今度こそ彼の血を吸って殺してしまうか、もしかしたら吸血鬼にしてしまうかもしれない。愛しい彼を僕のような化け物にするわけにはいかないんだ。
痛い、熱い、いたい、あつい……千弥……痛いよ……熱いよ……
「助けて……千弥……」
感じる熱い痛みに何故か涙があふれ、うわ言のように名前を呼んでしまう。まるで彼の登場を願うように、祈るように。
その時不意に部屋のドアをノックされた。
まさか……と思って僕が振り返るのと、ドアが開くのは同時だった。
「零、気分はど……」
ふわりとトマトポタージュのにおいがしたと思ったら、それは僕の手に渡るより先に床に皿ごと零れ落ちて音を立てて赤く広がる。
あ、ヤバい……そう思った時には既に遅く、千弥が血相を変えて僕の右手に握られていたカッターをひったくっていた。
あまりの千弥の勢いと表情に怒られるか殴られでもするかと思って身を凍らせていたら、カッターを握りしめたまま千弥はこぼれたポタージュの上に膝をついてうなだれた。
「なんで……なんで、そんなことするんだよ……俺がいるだけじゃ足りない? みんながいても、寂しさも悲しさも変わらない? もうイジメていたやつもいない。学校だって行きたくなかったら行かなくていい。それでも……ダメなのかな、零」
振り絞られる声は苦しげに喘ぎ、耳にする僕まで苦しくなってくる。
千弥は汚れた床に手をついたまま呻くように泣き出してしまい、僕は言いようのない悲しみで言葉も出ない。
「違う……違うんだ、千弥」
「さっきのクラスメイトを殺したから死のうとしてるの? あんな奴のために?」
「そういうことじゃ……でも、」
「零は何も悪くない! あいつらが先に零をイジメてひどい目に遭わせてきたんだから!」
振り絞るように叫ぶ千弥に、僕はなんて言えばいいんだろう。どう言い訳しても僕がしてしまったことは取り返しがつかないことに変わりはないのに。
呻くように泣く千弥の項垂れる姿を見つめながら、僕はどうしていいかわからず途方に暮れる。
何度僕は彼を悲しませ泣かせてしまうんだろう。ただ彼のやさしさにもたれかからないようにしたいだけなのに。
しばらくしてふと千弥の泣き声が停まり、顔をあげた。涙で濡れた顔は痛々しくキラキラしている。
「……そうだ、俺がやったことにすればいいんだ」
「千弥? 何を言って……」
「そうだよ、俺があいつを殺したことにすればいい。そうしたら零は何も悪くなんて……」
いまにも立ち上がってそのまま僕の代わりに警察に行きそうな千弥を、僕は慌てて肩をつかんで食い止める。
そんなことまでして欲しいわけじゃない。いくら千弥が僕にたくさん愛情を注いでくれているからって、罪まで被らなくていい。
「待って、違うよ、違うんだ、千弥……僕の話を聞いて」
泣き濡れた千弥の表情が痛々しくて胸が音を立てて潰れそうになる。でも僕なんかよりずっと千弥の方が苦しいんだ。僕なんかのせいで、僕なんかのために、いま僕よりもうんと傷ついて罪まで被ろうとしている。
だから僕は、本当のことを言わなくてはいけない。
「あのね、千弥……僕、イジメられて悲しくて傷つけていたわけでも、家族がいなくて寂しくて傷つけていたわけでも、西田のために死のうとしたわけでもないよ」
「じゃあ、なんで……」
泣き濡れた顔で僕を問うように見上げてくる千弥の前に膝をついて、僕もまた潤んでくる視界を拭いながら息を吐く。涙交じりに吐息は熱く、唇に触れるだけで苦しい。いまから言う言葉も口にするだけで苦しくなる。
「僕は、千弥が好きだ。……でも、千弥を愛することはできない。だから、こうして自分を傷つけて耐えてきたんだ」
「……どういうこと?」
言葉の意味が分からないと言いたげに表情を歪ませる千弥に、僕はできる限りやわらかく微笑み、ただ一言を告げる。僕が彼を愛してはいけない本当の理由を。
「――僕、吸血鬼なんだ。千弥が好きすぎて、千弥の血を吸いたくなっちゃうし、このままだと千弥を吸血鬼にしちゃうかもしれないから、自分の血を吸って我慢してきたんだけど……もう、ダメみたいだ」
「ダメってどういうこと、零」
「これ以上僕はここにいてはいけない。いたらきっと、千弥を一層苦しめて悲しませるか、西田たちみたいにしちゃう。そんなことを終わりにしたいから……お願い、もう、僕のことは構わないで。そうでないと僕……千弥に取り返しのつかないことをしちゃうから」
痛みに堪えるような表情でそれだけを告げ、僕は千弥に背を向けた。
きっともうこれで千弥は僕に関わらなくなるし、その内ここも出て行かなきゃいけなくなるかもしれないけれど、これで良かったんだ。
そう思っていたのに、背を向けたはずの彼が背後から僕を抱きしめてきてこう言った。
「零が生きていくのに必要なら、俺の血でもなんでも吸ってよ。俺はね、零が俺だけしか頼れなくなればいいって思ってる。世界で俺だけを見て頼って欲しい。そのためなら俺は零をイジメていたクラスメイトをどんな手を使ってでも停学にしたり、零の代わりに罪を被って警察に行くくらいどうってことない。それぐらいしか、俺はしてあげられないから。それぐらいでしか、俺は零に気持ちを示せない」
耳元で囁かれた言葉に僕が目を見開いて驚いていると、僕を抱く腕の力が一層強くなり、更にこう言葉を続ける。
「――俺も、零が好きだから」
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