*十三

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*十三

 どれくらい眠っていたんだろうか。薄暗い硬い床の狭いスペースで僕は目を覚ました。  ここは……そう思って辺りを見渡し、目の前の机に古いデスクトップのパソコンが載っているのを見て、ここがネットカフェ内のブースの一つであることを思い出す。それから、サンハウスを飛び出してきたことも。  これからどうしようか。学校はもう行けないだろうし、そもそも行きたくない。サンハウスから持ち出せたのはちょっとの現金と着ている制服のみ。  スマホは施設の方針で持たせてもらえなかったけれど、それはかえって好都合だったかもしれない。誰にも連絡がつかなくてサンハウスから居所を探られることはないだろうから。  警察が僕をそのうち探しにくるのかな……自分から捕まりに行った方がいいのかな……ああ、でももう本当に僕だけになったんだ……そう思うとすごく胸がすかすかして心許ない。自分から千弥という支えを手放したくせに、一日も経たない内にもうそんなで情けない。  相変わらず情けないな……溜め息交じりにうつむいた目に入ったのは、情けなさを象徴するように赤い傷だらけの腕。  昨夜、僕は千弥に吸血鬼であることを明かし、千弥は僕に血を吸えと言って首筋を差し出してきた。  正直願ってもいないチャンスだったけれど、言葉のままに彼に噛り付こうとはしなかった、できなかった。  本能としては震えるほどに彼が欲しかったけれど、そうしてしまったら好きな人を化け物にした本当の化け物となってしまう。だから断腸の思いで千弥に僕に関わるなと言って、そして別れを告げてサンハウスを飛び出した。  化け物であることを隠して生きていくか、化け物であることを明かして大切な人と別れるか。その選択を突然昨夜運命に迫られて、僕は後者を選んだ。  僕は千弥がいないと生きていけない自覚はある。彼がいなくては足許が危うくなるほどに身も心も不安定になってしまうだろうこともわかっている。それでも、僕は彼を吸血鬼にしたり殺したりしてしまうかもしれない可能性のある選択をしたくはなかった。  だって僕は、千弥には千弥のままでいて欲しいから。  できることならふたりで生きていきたい。サンハウスを出て、誰も知らないところでふたりきりで暮らしていきたい。  ふたりしかいない空間で、穏やかに生きていきたい、ただ、それだけなのに……僕に吸血鬼の血が流れているばかりにおとぎ話のように叶わない夢だ。 「……千弥」  もう逢わない、逢えないんだなと噛み締めるように思っていたら、急激に悲しみが僕を頭から覆い、口を塞ぐ。  息苦しさに耐えかねて、反射的に僕はポケットからカッターを取り出す。自分のであっても血を舐めれば、少しは気持ちが落ち着くかもしれないと思えたからだ。  剥き出しにした刃を肌に宛がったその時、テロテロのカーテンの向こうから声が聞こえた。 「すみません、サンハウスという児童福祉施設の城野と言う者ですが、昨夜遅くにこういう顔の男の子来ませんでした?」  聞き覚えのある、耳馴染みのする声と名前に、僕の心臓が跳ねる。そんな、噓だ……腕に宛がおうとしたカッターを持つ手が停まり、カーテンの向こうに近づいてくる足音と気配に耳を澄ませる。 「俺だよ、零。迎えに来た。一緒に帰ろう。みんなにちゃんと話をしよう」  僕のブースの前で停まった気配はよく知る声で僕を呼んで迎えに来たと言う。 カーテンの前に佇む姿もその表情もありありと目に浮かぶほどに愛しい人が僕を呼んでいる。一緒に帰ろう、とも言いながら。  昨夜あんなひどいことを言って千弥を拒んだのに、なんでまだ僕のことを捜しに来たりするんだろう。僕は吸血鬼の血が流れる化け物で、千弥の血を吸って同じような吸血鬼にしてしまうかもしれない、下手したら殺してしまうかもしれないと言ったのにもかかわらず。 「零、俺と一緒に警察に――」  千弥から呼びかけに応えないまま様子を窺っていたら、不意にカーテンが捲られて千弥が中に入ってきた。 入ってきた千弥は僕の姿を見るなり言葉を失い、そして血相を変えて僕の手許からカッターを取り上げようと飛び掛かってくる。  でもその手先が狂ってしまって――刃は千弥の手のひらを傷つけてしまった。 「イテッ……!」  反射的に千弥が手を引っ込めた時、わずかに血が床に滴る。  いつかの朝に見た切り傷よりも出血が多い傷口を目にしてしまった僕は、ぎりぎりのところで踏ん張っていた理性がガラスのように音を立てて壊れていくのを感じた。  血……千弥の、血……数滴のそれを脳が認識した次の瞬間、僕は千弥に飛び掛かりその首筋に牙を突き立てていた。 「ッぐぁ……! れ、い!」  千弥が痛みを堪えるような呻き声をあげたと思ったら、口いっぱいに瑞々しい千弥の血が流れてくる。  口中に広がるそれは、思い描いていたよりもはるかに甘美な味だった。いままでに味わったことがない美味しさに身体の中が満たされていく感覚に僕は痺れるほどの快感を覚える。吸血される方に快感が走るのは知っていたけれど、吸血する方にもあるなんて思ってもいなかった。  吸えば吸うほど快感は段階を上げていき、喰いついている千弥の肌の血の気がたちまちに失われていく。  千弥の身体がびくびくと痙攣して段々と冷たくなっていくのに、僕は吸血するのを止められない。  両親が言っていたことは本当だった……好きな人の血は何よりも美味しいし、美味しいものはたくさん食べたくなる。たとえ相手を吸血鬼にしてしまうことになろうとも、殺してしまうかもしれなくても構わずに。 「ン、ンぅ……っふ、っは、ンぅ」 「あ、あぁ……っかは、っあぁ……」  二人入ればたちまちにいっぱいになってしまうほど狭いブースの中で、僕は千弥の身体を抱きしめながら喰らいつき、血をすすり続ける。  甘美な血の味に酔ってしまうほどに吸い上げた頃には、千弥の身体はぐったりと力なく僕の腕の中にあった。 「っは、あ……千、弥……?」  千弥の肌の冷たさに我に返ったけれど、すべてが遅かった。だけど起こしてしまった事態に僕は思っていたよりも取り乱さなかった。  取り乱さなかったけれど、千弥を抱きしめたまま、呆然として動けなかった。  口の中は至福の味がして、身体は満たされているのに……頬には涙が伝う。  腕に抱く彼の首筋にはポツッと小さな穴が二つ並んでいて、そこはどす黒く見えるほどに濃い赤が滲んでいる。  穴に指先で触れると薄っすらと赤くなり、そっと口に含んでみるとほのかに甘い味がした。やさしくてやわらかで、彼そのものの味だ。 「千弥……」  ああ、本当に僕はやってしまったんだ……ついに、僕は愛しいと思っていた人の血を吸ってしまった。それも、自分が満たされるほどに。  この先どうしたらいいんだろう。どう償えばいいんだろう。僕ひとりでどうにかできるような事でないのは明らかだ。  なんにしても、もう僕はまともに社会生活とやらを送ることはできない。犯してしまった罪に対する罰を受けて、償わなきゃいけない。 「ごめんね、千弥……」  動く気配のない背を抱いて呟く言葉に返事はない。きっともう二度と彼の笑顔を見ることも、声を聞くこともできない。僕が奪ってしまったから。  これからどうしようかと考えたけれど、未だかつて味わったことのない美味な血液に満たされた本能的な悦びと安堵感で、僕もゆるゆると意識が遠のいていく。  こんなところで眠っている場合じゃないのに……そう思いつつも、愛しい人の重みを感じながら眠りの中に沈んでいく感覚は千弥の血を味わった時以上に心地よかった。
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