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*十四
「――い……零……」
「ん……?」
意識がゆっくりと目覚め始め、ぼんやりと視界が開けていく。映し出された景色の中にはほのかに明るいくすんだ色の天井と、僕を心配そうな顔をして覗き込んでいる……
「……千弥?」
視界に映し出された顔の名を呟き、僕は我に返って飛び起きる。起き上がったのは古びてくたびれた大きなベッドの上で、そこはほの明るい窓のない部屋。
ここがどこなのか、どうやってさっきまでいたはずのネットカフェから移動したのか、そもそも……どうして千弥がいつもと変わりない顔をしてぼくを見ているのか。
わからないこと訊きたいことだらけで頭が混乱していると、千弥は感極まった涙を目に溜めた表情をぐしゃぐしゃにしながら突然抱きしめて来た。
「千弥? なんで……」
「……かった……良かった、零……全然起きないから死んじゃったかと思った」
「千弥、ここどこ?」
「さっきのネットカフェのすぐそばのホテル。誰にも話を聞かれたくなったから、連れてきちゃった」
「連れてって……その、千弥、なんで……」
千弥が泣きながら僕が起きたことを喜んでいる様子であることはわかったけれど、どうして吸血したはずの彼がいままでと変わった様子なく接してくるのかがわからない。
わからないなりに恐る恐る千弥の背に腕をまわして抱きしめ返してみて、僕は気付いた。服地越しであっても、その中にあるはずの体温がなく氷のように冷たいことに。
冷たさにハッとして抱擁を解いて千弥の顔をじっと見つめるとわずかに開けられた口許に人間にしては鋭利な犬歯が覗いていた。
「千弥……吸血鬼、に……?」
「そうみたい。零が言ってた通りでびっくりしたよ」
これでおそろいだね、なんて笑う青白い顔の千弥を見つめながら、彼を吸血鬼にしてしまった罪悪感と拒絶されなかった嬉しさが胸に迫ってくるのを感じた。まるで高波のようにその複雑な感情は僕を呑み込み、すぐに深い絶望感を覚えさせる。
なんてことをしてしまったんだろう……拒まれなかったからと言って本当に同族にしていいわけではない。吸血鬼になるということは化け物になってこの社会でまともな暮らしができなくなることと同意なのだから。
確かに僕は千弥と別れたくないと心の底では願っていたけれど、それがこういう結果をもたらしてもいいということに繋がっていい理由にはならない。僕のように吸血鬼に関係しているわけではない心やさしい人間である千弥を、僕が味わってきた苦しみに巻き込んでいいはずがない。
それなのに――ほの明るい密閉空間の中で、絶望感と罪悪感に打ちのめされている僕と人間であった頃と変わらず穏やかに微笑んでいる千弥が見つめ合う。
「……ごめん、本当にごめん、千弥……僕、なんてことを……」
捜しに来てくれた千弥に喰らいついて吸血しただけに飽き足らず、同じ吸血鬼にして人生を狂わせてしまった。
この償いをどうしていけばいいのだろう――でも、どうしてなんだろう、沈みそうに悔やみながらも心の奥ではおそろいになれたことが嬉しくて仕方なく思ってもいる。化け物である僕にはこんなにも――それこそ命がけで――寄り添ってくれる存在なんて千弥以外に今までなかったから。
湧き上がってくる罪悪感と本能的な喜びの感情が入り混じり、圧し潰されるように呼吸が浅くなっていく。吸うことも吐くこともままならず、打ち上げられた魚のように醜く喘ぐ。
「っは……あぁ、っは、っは」
「零、大丈夫だよ。落ち着いて」
呼吸を忘れた僕の背を千弥がやさしく撫でてくれる。その感触は昔からずっと変わらない。たとえ吸血鬼になって体温がなくなってしまっていても。
だから余計に僕は彼をこんな状態にしてしまったことに素直に喜んでいいのかがわからない。僕のせいで千弥の未来は歪められて失われた。あったかもしれない明るい前途が血に塗られてしまったのだから。
血……脳裏に過ぎった言葉に、罪悪感に乱された感情とあの口中に広がっていた感触が渦を巻いて急激に僕の理性を再び蝕んで、より化け物になっていく音がする。
なんで僕は、こんななんだろう。なんで僕は化け物の血が流れているんだろう。大切な人を化け物に変えて、人生を壊して、どうして平然と生きているんだろう。
なんで、僕なんかが―― どこか遠くで、何かが砕け散る音が聞こえた気がした。
「零! やめろ!」
何かが砕け散る音を微かに聞いたと思った次の瞬間、千弥の悲鳴じみた声が聞こえた。
声の方に顔をあげると、蒼ざめた顔で僕を羽交い絞めしている千弥の必死の形相をした横顔が目に映し出される。それから、強く締め付ける感触。
一体何が……と自分の手許を見ると、僕は自らカッターを首筋に宛がっていた。
薄く鋭利な感触と震えるように息をする僕と千弥の呼吸音に段々となにが起こったのかを思い出し始め、僕の感情が爆ぜた。
「放してよ、千弥! 僕なんていない方がいいんだ! こんな化け物、いなくなればいいんだ!!」
「落ち着いて、零!」
「大切な千弥を化け物にしちゃった僕なんか、生きてちゃいけない……いなくなった方が、絶対、いい……」
捕まれている右手を無理矢理に動かして強引に首筋へと引き寄せようとする僕に対して、千弥はそれ以上の力で引き離そうとする。震える刃先が肌にぎりぎりに触れそうで触れない。ちりちりとした焦燥感と拭いきれない絶望感がより僕を掻き乱す。
泣き叫びながら死なせてくれという僕を、千弥はひたすらに羽交い絞めするように抱きとめていた。「零、大丈夫、大丈夫だよ」いつもと変わらない、だけど迷いのない声でなだめながら。
僕に吸血鬼にされても尚、千弥は変わらずやさしく、体温がないはずなのにあたたかく感じる。たぶんこれは、肌の温度ではなくて……彼の心の温度なんだ。
人間でなくなっても、千弥は千弥なんだ。人間であろうと吸血鬼であろうと、彼は彼であることに変わりはない。ただひたすら僕を愛してくれている千弥なんだ。
だから余計に彼を吸血鬼にしてしまったことが悔やまれてならないし、仲間にできたことを嬉しくも思ってしまう。相反する感情が取り乱した身体の中で暴れまわる。
「千弥……僕、どう千弥に謝ったらいいんだろう……千弥を、吸血鬼なんかにしちゃった……本当に、ごめん……」
許されない罪を犯したのに、千弥は僕を改めて抱きしめながら首を横に振る。そうじゃないと言うように、やさしく。
「俺はね、零。零がいなくちゃ生きていけない。だって零は俺の血まで求めてくれてるんでしょう? 俺ね、零が俺の血を見たら興奮する姿が、すごく好きだし、零が俺のことで自分を傷つけて血を流しているのを見るのも好きなんだ」
「え……」
思ってもいなかった言葉に、僕は目を見開き抱擁を解く。千弥は触れ合いそうな至近距離でいつになくうっとりと微笑んでいる。
「家族を亡くしてからいつ死んでもいいって思ってたこんな俺なんかの血を見て、零は興奮してまで必要としてくれて、その上自分を傷つけるほど俺のことを好きでいてくれてるって知ってからすごく嬉しくて……でもやっぱり零が傷だらけになるのは可哀想だから止めようともしてたけど、やっぱり嬉しくて……。でもまさかそれが零が吸血鬼なせいだなんて思わなかったな……」
「……僕がやってこと、知ってたの?」
「うん、だからね、零はそういうことする暇もないくらいに絶対に俺がしあわせにしなきゃってずっと思ってるんだ」
知っていたんだ――僕が自傷していた理由を。だから千弥がどうして僕に計り知れない愛情を向けてくれるのか、その理由が分かった気がした。彼もまた、僕と違った化け物のような闇を抱えているのだ。
家族を亡くし、死んでいるように生きてきたのは千弥も僕も同じだったなんて――深いふかい血に塗られた闇は、僕と千弥をいつの間に呑み込んでいたんだろう。
「零がしあわせに笑っててくれなきゃ、俺が生きている意味なんてないんだ。零がしあわせになってくれるなら、そのためなら邪魔な奴はどんなことをしてでも消してやるし、俺が吸血鬼にされたって全然かまわない」
改めて千弥が僕を抱き寄せ、そっと剥き出しの首筋に唇を押し当ててくる。ほんのりと感じる彼のゼロであるはずの体温が愛しさを煽るほどに熱い。
「でも、千弥は僕のせいでもう普通には生きていけないんだよ?」
「零がいてくれるなら、俺はそれでいい。零と一緒にいられるなら、どんな化け物にだってなったってかまわないし、どこでだって生きていける。それが俺の普通だよ」
「千弥……」
握りしめ首筋に引き寄せていた手の力が緩み始めると、千弥が僕を自分の方に向き直させて向かい合わせになる。お互いの顔は涙に汚れてふたりともいまにも崩れそうだ。
向かい合って見つめる互いの頬を濡らす涙に触れながら近づき、僕は千弥の唇にキスをした。
触れた唇は互いの涙の味がして、少ししょっぱい。それがおかしくて小さく笑ったら、千弥はもう一度僕を抱きしめてきた。はずみで手にしていたカッターが床に転がり落ちる。
「ありがと、千弥……愛してる」
「俺もだよ、零」
「……ねえ、どんな姿になっても、どんなことになっても、僕のこと愛してくれる?」
「当たり前だよ。零が零であるなら、どんな姿でもどんなことになっても、俺は愛するよ」
目の前で泣きながら微笑む千弥の姿は、穏やかでありながらどこか正気でないのがわかる。でも僕にはその常軌を逸した愛情が必要なんだ。
彼だけが、僕を心から愛してくれる。それだけがあれば他に何もいらない。
「ずっと一緒にいて、千弥」
「ずっと一緒だよ、零」
泣き濡れた顔で交わした言葉は永遠のように甘く、お互いの言葉を吸い上げた血液のようにそれぞれの体内に取り込むように絡ませながら、触れ合う唇の上で溶けていく。
抱き合い口付けしながら、僕らはゆっくりとベッドに近づき、やがて僕はそっとそこに組み敷かれていく。
千弥の指先が僕を服の上から身体の造りを探るように撫でてくれる。服地越しに感じる冷たいはずの指先が熱く思えてしまうのは、僕が赤い血以上に彼自身を欲しているからだろうか。
「……零」
「千弥……」
囁き合う互いの名前は溜め息の色に染まり、こぼれる吐息まで甘い。ほんのついさっきまで絶望の色をしていたふたりの目は、小さな灯りが宿ったように煌めいている。
名前を呼びながら再び交わしたキスで繋がったところから濡れた音を立て始め、僕らは互いの身体を覆う服をはぎ取っていく――
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