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*二
「零、私たちは吸血鬼だからね、人間を好きになっても悲しいだけだよ」
「どうして?」
「好きな人の血は何よりも美味しいし、美味しいものはお腹いっぱい食べたくなるだろう? そうするとね、たくさんその人の血を吸ってしまって、その好きな相手もまた吸血鬼にしてしまうかもしれないからね」
「じゃあもしかしたらおそろいになれるの? 僕、好きな人とおそろいがいい!」
「残念だけどね、人間は我々のような血を吸う化け物は嫌いなんだ。最悪の場合相手を殺してしまうような、自分たちの命を脅かす存在だと思われているからね。だから絶対に、人間を好きになっちゃいけないよ、零」
一番古い記憶の中に刻まれている会話をいまでも時々思い出す。
いつどこでどういう時に言われたのかは憶えていないのだけれど、幼いながらに「じゃあ自分は誰を好きになってもいけないし、好きになってももらえないんだ」とひどくショックを受けた記憶がある。
この会話をした時ただ悲しくて、幼かった僕はしくしくと泣いて「そんなのはイヤだ、おそろいがいいし、好きになってもらいたいし、好きになりたい!」と言ったのだが、両親は困ったようにただ僕の頭を撫でてくれていた。それが、僕の中の唯一の両親の記憶でもある。それから間もなく事故で亡くなったからだ。
僕は両親の顔をよく憶えていない。憶えているのはその言葉と、僕の頭を撫でてくれていた白いやさしい手の感触だけ。
そしてその言葉はいまもずっと僕の中に深く刺さったままだ。
僕が自分の腕を噛んだり傷つけたりした日は千弥がトマトのポタージュを作ってくれて、「零はあの日も腕を傷つけて、このポタージュを食べたよね」と言って、うっとりとおとぎ話を語るように出会った日のことを話しだす。
「零がここに来た日のことを今でも憶えてるよ。月も出ていない真っ暗な夜で、零は黒い服に黒い靴を履いていて、人形みたいに長くてきれいな髪をしていたよね。その隙間から覗く赤みがかった眼が宝石みたいだった」
千弥と初めて会った日、僕は出会ったばかりの千弥にしがみついて彼から離れようとせず、寝るのも一緒にすると言って聞かなかったという。
だから先生たちがどうにか引き離そうとしたんだけれど、すごく僕が暴れて自分の腕を噛んだりしたもんだから、落ち着かせるためにたまたま与えられたのがトマトのポタージュだったらしい。
それ以来、僕の気持ちが落ち着かなくなると千弥がトマトのポタージュを作ってくれるようになった。
正直僕はその当時のことをあまり憶えていなかったんだけれど、あまりに何度も千弥が同じ話をくり返すから記憶が上書きされてしまったほどだ。確かに僕の右腕には古い噛み痕があるから、その時のものかもしれない。
千弥からあの日の話を聞くたびに、僕の存在がどれほど彼にとって衝撃的であったかを思い知らされる。目の前で彼を慕うあまりに自分の腕を噛むとかありえないものね。
でも千弥はそんなことがあっても僕を避けることはなく、むしろ弟のようにかわいがってくれてきた。
「よくそんな妙な僕のこと避けたりしなかったよね、千弥は。イヤだとか怖いとかなかったの?」
僕は自分の陰湿な雰囲気から学校の子には避けられている自覚はあったのでそう訊いたのだけれど、千弥は少し考えてこう答えた。
「うーん……俺と一緒にいたい! って泣きながら自分の腕とかを噛みついてた零を見ていたらね、俺は悲しいとか怖いとかよりも、むしろ零にそんなことさせる暇がないくらいに守ってあげなきゃって思えたんだよね。だって折角ここで家族になったんだし」
訊くたびにそう千弥はごく当たり前のように微笑んで言うのだけれど、幼い当時の彼にそんなに大きな決意をさせたのかと思うと驚くと同時に申し訳なくも思う。
それと同じくらい、千弥のそのやさしさが他のみんなからは奇妙と思われていただろう僕を唯一認めてくれているようで安堵もしてしまう。
月のない真っ暗な夜に現れた黒ずくめの小さな子どもは、あの頃と変わらず黒い長い髪を伸ばし、朝が苦手でニオイの強い野菜が大嫌いで、血の滴るような赤い肉が好きだ。
とは言え、児童福祉施設のサンハウスで血の滴るような肉なんて出してもらえないので、こっそり調理場に忍び込んで料理前の肉をひと口拝借するくらいしかできない。あとはこうしてトマトのポタージュでごまかすか、どうしても我慢できない時はこっそりと小さな動物や小鳥を捕まえてその血を吸ったりもする。
「トマトのポタージュもいいけど、零はもうちょっと色々な野菜とか魚とか食べないと。身体に悪いよ? こんなに痩せっぽちなんだし」
「だって美味しくないんだもん」
「調理師さん達は心込めて作ってくれてるのになぁ」
「わかってるよ……それよりもさ、ポタージュおかわりしていい?」
「どうぞ。零のために作ったんだから」
勉強机の上に広げられたスープカップと朝の残りのパンを食べている僕を、千弥は頬杖をつきながら眺めている。その眼差しは他のどの先生よりもあたたかでやわらかで、僕を心地よくしてくれる。
千弥の眼差しを感じて心地よくなるたびに僕はもっと千弥からやさしくされたくなるんだ。やさしくされていっぱい撫でられて、それから……その体内を巡る赤い血をお腹いっぱいに吸って、彼を味わいたくなる。
そこまで考えが辿り着いた時、いつも僕はどうしようもない感情に戸惑いを覚える。もっと千弥に触れられたいと思えば思うほど、身体も彼を欲しいと疼く理由がわからないからだ。それは血を求める衝動とは明らかに違う。
疼きは千弥と小さい頃のようにただじゃれるように触れ合いたいというよりも、もっと強く彼を求めている気がする。性的な対象として彼を求めているのと似ているようでいて、もっと原始的な欲求な気もするんだ。まるで彼の存在で僕が生かされているから求めて欲するような、そんな感じが。
その感覚は千弥の血を目にするとより強く感じる。喉が渇いて仕方がないように、お腹が空いて仕方がないように、どうしようもなく彼に触れたくなるし、彼からも触れられたくなる。
こういう気持ちってどう言えばいいんだろうか。僕が千弥のことを特別に思っているのは確かだとしても、それに名前があるようなものなんだろうか。
名前があるとすれば、それってもしかして――
「零? もうごちそうさまする?」
「あ、うん……ありがとう、ごちそうさまでした」
「顔色もだいぶ良くなってきたね。そろそろみんなが帰ってくるからおやつの準備手伝ってくれる?」
「うん、わかった」
頼まれごとに僕がうなずくと、千弥は嬉しそうに微笑んで食器とポタージュの入っていた片手鍋をお盆にのせて部屋を出て行った。
ひとりきりになった部屋の机の上には、僕がここに来て間もない頃の写真が飾られている。痩せっぽちで髪がうっとうしいほど長くて、暗い赤黒い眼をしている子ども――サンハウスに来たばかりの僕だ――がそこに写っていて、その隣に当時の僕より二十センチほど背が高い明るい茶髪のショートヘアの少年がピースサインをして笑っている。出会った頃の千弥だ。
当時は千弥もサンハウスの子どもで、小学生だったはずだ。いまと変わらず明るくてやさしくて、家族を亡くしたばかりだった僕の遊び相手をよくしてくれた。千弥は事故で僕と同じくらいの妹を亡くしたと聞いているので、僕が懐いたことを抜きに構ってくれたのかもしれない。
サンハウスには十八歳までしか籍が置けなくて、それから先は進学するにせよ就職するにせよ独り立ちをしなくてはいけない。そこまで待たなくても縁があれば養子として引取られることもある。
だけど千弥はサンハウスを卒業してもここに残る道を選んだ。養子に出ることも外に進学も就職もせず、ここで職員の一人として働いている。
「どうして千弥はサンハウスに残ったの?」
いつだったか、まだ今より幼かった頃に僕は千弥に訊ねたことがあった。千弥と同じようにサンハウスにいた同じ年ぐらいの子たちはみんな外の学校やら職場やらに行ったのに、と。年齢にかかわらず他の子たちはサンハウスの外に興味津々だからだ。
千弥は僕の言葉にちょっと考えて、それから困ったように微笑んでこう答えた。
「俺はべつにこれと言って得意なことなんてないから。頭も悪いし、運動もできないし」
「えー? 嘘だぁ。千弥は勉強もできるし、僕なんかより友達も多くて足も速いじゃない」
「そうでもないよ。俺が唯一得意なのは零を泣き止ませることだけだもの」
「なんだよそれ! 僕そんな赤ちゃんじゃないよ!」
千弥は冗談のつもりで言ったのかどうかはわからないけれど、あまりにその通り過ぎて僕は怒ったふりをしてごまかすことしかできなかった。
実際、僕は昔から千弥がいないと赤ちゃんも同然とよく言われる。彼の血を見て理性を失くしかけるくせに、彼がいないと自分の立ち位置が危うくなるぐらいに身も心も不安定になってしまうからだ。
小さかった頃、千弥が学校の友達の家に泊まりに行かせてもらった時があった。勿論ちゃんと許可ももらっていたし、前もって千弥からこの日はお泊りに行くよって聞かされてもいた。
それなのに、千弥が外のおうちが気に入っちゃってもう帰ってこなくなったらどうしようとか、事故に遭って両親のように帰ってこなくなったらどうしようとか、ずっと考えてしまって、僕は千弥がいない夜が寂しすぎて不安で仕方なくて眠れなかったんだ。
お泊りの日の真夜中、気が付けば僕はサンハウスの玄関の広間でひとり大泣きをしていた。当時もう七歳くらいになっていたはずなのに、赤ちゃんみたいに千弥の名前を呼びながら泣きじゃくっていたんだ。
その泣きように職員のどの先生が挑んでも泣き止まなくてお手上げになってしまって、真夜中にもかかわらず先生は千弥を迎えに行って連れ帰ってきたほどの騒ぎになった。
「零! どうしたの? 俺、帰ってきたよ」
「千弥ぁ、もうどこにも行かないで」
「うん、大丈夫。行かないよ、零」
「よかったぁ、ずっと……一緒……」
折角のお泊りだったのに連れ戻されて怒るどころか、僕を心配する千弥。その姿を確認した途端、僕が泣き止んでその場で安堵して気絶するように寝落ちてしまう、ということがそれ以降も二回ほどあったのを思い出して千弥は言っていたのかもしれない。
何度もそんなことがあったからなのか、とにかく千弥はサンハウスに残ることを決めていまに至っているようだと僕は思っているんだけれど、本当のところはわからない。
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