*七

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*七

「――零」 「……ごめんなさい」 「何が?」 「えっと、今日の、こと……」  なんで千弥が部屋に来たのかもわからないままに反射的に謝ったら、千弥が首を傾げている。  「今日のこと、って?」ともう一度問われ、僕は事実をありのままに伝えるかどうか一瞬ためらった。だってありのままに言うなら、僕がしたのは未遂ではあるけれど吸血行為と言う名の殺人未遂に値するようなことで、小鳥に関しては完全に殺してしまっているからだ。  それはつまり、僕に吸血鬼の血が流れていることを千弥に明かすことにもなる。そうなったら僕は……もう、ここにはいられなくなるだろう。  色々なことがいっぺんに頭の中を駆け巡ってどれから話せばいいのか迷っていると、千弥は僕が身を起こしているベッドの縁に腰をおろし、そっと僕の頬に触れてきた。 「……ごめんね、零」 「え?」 「俺が零のこと守るって言ってたのに、全然守れていなかったんだね」  頬に触れていた手がするりと輪郭をなぞりシーツの上に垂れていた僕の腕を取る。放課後のトラブルからそのままのそれは薄汚れた制服の長袖のシャツだ。  千弥は何を思ったのか袖を捲りあげ、傷だらけの腕を曝し出した。 「やめッ! 何するんだよ!」 「これって零が何か悲しいことや寂しいことがあってやってるのかと思ってたんだけど、違ったんだね……」 「……どういうこと?」 「こうなっちゃったのは俺が守れてなかったからだよね……本当にごめん……苦しかったね、痛かったよね、零」  赤や紫の傷跡をこの上なくやさしくさすりながら千弥は表情を歪める。まるで自分がこの傷のすべての原因だとでも言いたげに。  それは事実であって、真実じゃない。確かに僕は千弥の血を欲したのをこらえるために自傷してしまうけれど、それが彼のせいではないからだ。千弥がケガをして出血することは不可抗力だし、こうすることのすべては千弥の血に対してだけではないものもある。  だけどそもそも僕がどうして血に反応するのかということも、その理由も彼は知らないはずし、僕は伝えていない。伝えてしまったらきっと僕はもう千弥と一緒にはいられなくなってしまうから。 「千弥、あのね、これは……違うんだ」 「違うって?」  なんて言えば千弥は納得してくれるだろうか。どう言えば、僕は千弥とまだ一緒にい続けることができるだろうか。  僕は彼がいないと不安で仕方なくてとても生きていけないのに、一緒にい続けるためにはどうしたらいいかがわからない。それなのに次に発する言葉次第ですべてが決まってしまうようで怖くて仕方ない。  だから僕は必死に考えてこう言った。 「たしかにこの傷は僕が自分でやったものだけど、その……ちょっと色々イライラしてやっちゃうだけで……千弥のせいじゃない」  たどたどしい僕の説明に千弥は眉をひそめて考え込み、「でも、今日の放課後の話は?」と更に訊ねてくる。やっぱり、知っていたんだ……千弥の言葉に胸がぎくりと音を立てる。 「ゲームセンターの人が学校に連絡してきたらしくてね、さっきサンハウスにも電話があったんだ。零、ひどい目に遭ったんでしょう? だから小鳥を殺して憂さ晴らししちゃったりして……それはやっぱり俺が守れてないから――」  千弥は悔やむようにそこまで言いかけて唇を噛んでうつむく。傷にしても小鳥のことにしてもどうしても僕の傷のすべてを自分のせいだと思っているようだ。  いまここで彼の言葉にうなずいてしまったら、また彼のやさしさに甘えることになる……それじゃダメなんだ。僕は千弥に頼らなくてもしっかり立って歩けるようにならないといけないんだ。 「違う、千弥のせいじゃないよ」 「でも、零……」 「僕なら、大丈夫だから。こんなの平気だよ」  本当は震えそうなほど不安で怖い気持ちもある。言っている端から目の前が揺らぎそうなほど怖い。  でも、このままだと僕は千弥にいつまでも頼ってばかりの小さな頃のままだ。千弥は僕だけのものじゃない、サンハウスみんなの先生なんだから。もう大丈夫なところをちゃんと見せて安心してもらいたい。  僕がもっとしっかりしてもっと早くに気付いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。少なくとも千弥をこんなに悲しませるようなことはなかったはずだ。  だから、いまからでも遅くないなら、どんなに怖くても僕は笑うんだ。  僕が千弥と向き合いながら密かにそう決意して無理矢理に微笑むと、千弥はより痛みをこらえるような顔をする。 「零、苦しい思いさせてごめんね」 「ううん、心配かけてばかりでごめん、千弥」  潤んだやさしい眼はいつもと変わらないのに、すごく悲しい色をしている。それが僕のせいだと思うと何とも居た堪れない。  傷だらけの腕を千弥は何度も何度も撫でてくれて、やさしい手触りが僕の中の居た堪れなさまで均(なら)していく。  居た堪れなさが均されて穏やかになり始めると段々と気持ちが楽になってくる。  ああ、やっぱり僕は千弥と一緒に生きていきたい、強く思いながら見つめていると、千弥がこう呟く。 「零は謝らなくていい。悪いのは零を痛めつけてきたやつらなんだから。零が我慢することはないんだよ――大丈夫、もうそんなことにはならないからね」  千弥はもういつものようにやさしく穏やかな表情をしているのに、僕の頭や頬を撫でつつやさしく微笑みながら千弥が言った言葉に、何故か背筋が凍るような思いがする。  背筋に覚えた冷たさの意味が解らなかったというより、理由を探ってはいけない気がしたから、僕はただ千弥に促されるまま部屋を出てその日最後になった入浴に向かう。  いつもなら小さい子たちが駆けまわったり遊んだりして騒がしいほどの風呂場は貸し切り状態で、僕はほんの少しだけ得をしたような気分になって湯船に浸かり、そしてすぐにまたベッドに入った。 (とにかく、もうこれ以上千弥に心配かけないようにしなくちゃ……血にも惑わされないように……)  ベッドに入る頃にはあの背筋が寒くなったことも忘れていて、色々な感情に振り回されたこともあってすぐに眠りに落ちていったのだ。  だけど翌日、その背筋の寒さが気のせいではなかったことを思い知ることになる。  翌朝、僕はかなり憂鬱(ゆううつ)な気分で朝を迎えた。昨日のことでサンハウスのみんなからどんな目で見られるか怖かったし、なにより井口達から報復だとかで待ち伏せされているかもしれないと思ったからだ。  でも朝食の前に千弥が手招きして、僕だけにこう言ってくれて少し安心できた。 「零、どんなに些細なことでも、困ったことがあったらいつでも俺に言うんだよ。俺じゃなくても、園長でも、他の先生にでもいいからけど、俺なら必ずなんとかしてあげられるから」 やっぱり昨日のことが関係しているんだろうか。気を遣われているのがわかってかえって申し訳なく思う。 「ごめん、心配かけて」 「いいんだよ、気にしないで」  でもどこかみんなよそよそしい感じで、唯菜はいつも僕の隣でご飯を食べるのにふいっと顔をそむけていなくなってしまったし、朝陽にも僕ではお世話がイヤだと言って泣かれてしまった。  だけどそれ以外はサンハウスを出る前もその後も拍子抜けするほど特におかしなことはなかった。先生たちは不気味なほどにこやかにいつも通り僕らを送り出してくれて、門の外には誰も待ち伏せてなんかいなかったのだ。  僕は一人隅の方で朝食を取り、ひとりサンハウスを後にする。外には誰も待ち伏せてなんかいなかったことだけが唯一嬉しかった。  とは言え昨日の今日だから、チクっただろうとか言ってまた腹いせに何かしらの言い掛かりはつけられるかもしれないな……という覚悟はほんの少ししながら登校したのだけれど、井口たちは声をかけてくるどころか姿も見えなかったのだ。  しかも登校した僕を学校中のみんなが、サンハウスのみんなみたいに遠巻きにしている。普段井口たちにイジメられている時とは違った、異質なものを避けるような感じに。  何かおかしい……そう思ったけれど、それを確認できるほどに僕はクラスのやつらと仲良くはない、というか話すらしたことがないのでただぼんやりと席についていた。  その内に担任が教室に来て、みんなが席についてホームルームが始まり、僕は衝撃の事実を知らされる。 「えー……急な話だが、昨日付で井口と西田は無期限の停学になった。理由は傷害行為だ」 「え……」  昨日付けで、無期限の停学? それってほぼ退学のようなものじゃないか。しかも昨日僕をゲームセンターに連行したやつらが?  素行があまりいい生徒ではなかったけれど、即日で、しかも今更傷害行為で処分って……そりゃ僕はずっとひどい目に遭ってきたけれど、今までずっと見て見ぬふりをしてきたじゃないか。それなのに?  僕がひどい目に遭ってきた――騒めくクラスメイトが何となく僕に視線を向けてくるのを感じながら、考える。  クラスのやつらは見て見ぬふりをしてきたのだから、僕が井口たちにイジメられていたのを知ってはいるだろう。昨日のゲームセンターの件にしても学校には知られているし、小さな町だからどこからか話が漏れて知られているのもありうる。  だけど、だからって今更のことが即日にこうなるなんてあり得るんだろうか。 「零は謝らなくていい。悪いのは零を痛めつけてきたやつらなんだから。零が我慢することはないんだよ――大丈夫、もうそんなことにはならないからね」 「零、どんなに些細なことでも、困ったことがあったらいつでも俺に言うんだよ。俺じゃなくても、園長でも、他の先生にでもいいからけど、俺なら必ずなんとかしてあげられるから」  そのとき不意に、昨日と今朝の千弥の言葉がよみがえる。 (大丈夫、もうそんなことにはならない……必ずなんとかするって……それって、こういうこと?)  そう思いが至った瞬間、また僕は背筋がゾクッと寒くなった。あまりに考えの及ばない出来事に頭の中で言葉がまとまらない。  もしかして井口たちの処分は千弥が何か関係しているんだろうか……ちらりとそんな考えが過ぎったけれど、確認しようにもすぐに授業が始まってしまって何もできなかった。 (千弥は確かに僕にやさしいけれど……だからってまさかこういう誰かを停学にまで追い込むようなことまでするのかな、できちゃうのかな……)  もしそうだとしたらあまりに重たい愛情だけれど、そうじゃないともそうだとも言い切るには確証がないし、ただの偶然かもしれない。  だけど――心のどこかで千弥ならやりかねないな、とも思ってもいた。  何故なら彼は、僕のためなら友達付き合いを悪くしてまでも帰ってきたり、決まっていた就職先を辞退してサンハウスに残ることを選んだりするように、自分の人生の大切なものや選択を放り出すようなことも簡単にやってのけるからだ。  でも、まさかそこまでないよね……そう思いながら、僕は退屈な授業に耳を傾けるふりをした。
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