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「おかえり、零」  誰にもイジメられることなく一日を終えて帰ると、千弥が僕を出迎えてくれた。千弥は昨日のことなんてなかったかのようにいつもどおりにこにこしている。 「……ただいま」 「おやつ用意してるよ。今日はミカンゼリーだよ」  僕の手を小さな子みたいに牽きながら食堂まで連れていく千弥は、やさしくて穏やかでにこにこしていて、やっぱりいつもと変わらない。  食堂には僕と千弥の他には誰もいなくて、僕らは三列あるうちの一番右の列に向かい合って座る。 「美味しい」 「そっか、よかった」  千弥がいる時に食べるものは、やっぱり美味しく感じることができる。一番美味しいのは血であることに変わりはないんだけれど、それ抜きで考えても千弥との食事は美味しいと思えるのだ。  不思議だな、と思いながらゼリーを半分ぐらい食べ終えたところで、「学校大丈夫だった?」と、千弥が訊いてきた。 「あ、うん……えっとその……」  まさか昨日僕をイジメていたやつらが即日で無期限停学になったなんて言っていいのか口籠っていると、いつも僕がトマトのポタージュをひとりで飲んでいるのを見ている時のように頬杖をつきながら千弥はにこやかに呟いた。 「あいつら、もう学校来れなくなったでしょ?」 「え……なんでそれ、知ってるの?」  学校からもう連絡があったんだろうか。そうだとしても知っているのはまだ園長だけじゃないんだろうか……もう、他の先生もみんな知っているのかな……混乱している僕を、千弥はどこか嬉しそうに見ている。  驚きを隠せない僕に、千弥は更ににこやかに言葉を続ける。 「大切な零にひどいことするようなやつらだからね、徹底的に懲らしめてやろうと思って……ちょっと、ね」 「ちょっと、って……だって、無期限の停学なんか……」  もしかして園長が学校に直訴したりしたんだろうか。でもそれは前にも千弥経由で言ってもらったけれど全然効果がなかったのに……なんで今回は即日に無期限の停学なんかになったんだろう。  困惑と戸惑いと、妙な胸騒ぎを覚える僕の手を、千弥はそっと撫でて少し申し訳なさそうな顔をしている。 「ごめん、本当は零があいつらにイジメられてるって、俺知ってたんだ」 「えっ……なんで……」 「今回だけじゃなくて、いままで……小学校の時も中学の時も、零がイヤな目に遭ってたのは、知ってたんだ」  確かに僕は小学校でも中学校でもちょっとした意地悪をされることがあった。その理由が何なのかはあの頃はわからなかったけれど。  でも、あの頃意地悪をされていた話は誰にもしていなかったはずなのに、どうして……? 「あの時はいつもすぐに意地悪されなくなって……」 「うん、まあそれも俺がどうにかしてたから」 「千弥が?」  確かめるように訊ねると、千弥は当然だというようにうなずき、にっこりとやわらかく微笑んで答えた。やわらかい、でもどこかぞくりとする笑みで。 「だって、俺の大切な零にひどいことするんだから、ちょっと懲らしめただけ。当然のことしただけだよ」 「懲らしめた、って……まさか……」 「ああ、そんな今回みたいなことはしてないよ。零にもう手を出すなよって言ったくらい」  そう、千弥は苦笑していたけれど僕は笑えなかった。今更に思い出したのだ、意地悪が止んだ前後、必ず僕に意地悪していた誰かが転校していたことを。  千弥が僕に特別甘くてやさしいとは思っていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。自分の大切なものを犠牲にすること以上に、僕に危害を加える奴に対して容赦しないほどに彼からの愛情は重たかったのだ。  重たい千弥からの愛情に気付いて言葉が出ない僕に構わず、千弥は微笑んでいた表情をスッと凍り付かせて呟いた。それが一層僕をぞっとさせる。 「――でも、今回はちょっと我慢できなかったんだよね……零をイジメている決定的な証拠をつかむまでは見逃してあげようかなって思ってたけど……あまりに度がすぎたから」  井口達が僕にしてきたことは、確かにイジメの度を越えていたかもしれない。昨日なんて最終的に僕のものとは言え刃物を向けてきたし殴ったりしたし。流石に温厚の千弥も我慢ならなかったということなんだろうか。  なんにしても、今回の停学処分は千弥によるものらしいことが確実なのはわかった。  でも僕は素直に千弥に感謝していいのかわからず、余計に困惑してしまう。だって僕のせいで千弥が悪いことに手を染めている気がしてならなくて。 「……ごめん、千弥」 「なんで零が謝るの? 零は何も悪くないんだから、ね?」  千弥はにこやかにそう言って僕の頬を撫でてくれる。幼い頃の僕が千弥を恋しがって泣いていた夜のようにやさしく。  それなのにその手の感触がやさしければやさしいほど、僕は胸の中が騒めくのを止められない。  その内に他の子たちもおやつを食べに来たので、僕は慌てて千弥から離れて自分の部屋へ戻った。  二階の部屋へ入り、大きく息を吐きながら制服のブレザーを脱ぐ。ハンガーにかけようとしたけれどよれてしまって、僕は袖などを引っ張りながら形を整えようとした。  その時、何かがブレザーから跳ねるように落ちるのが見え、僕はブレザーをフックにかけて拾い上げる。 「……なんだ、これ?」  拾ったのは親指の先ほどの小さな部品のようなものだった。見た目はブレザーの胸ポケットのエンブレムの一部のような模様が入っている。  エンブレムの一部だろうか? そう思いながらエンブレムを見ても、どこも破損した感じではない。エンブレムの一部と言うより、どちらかと言うとマイクみたいな感じだ。  マイク? こんなところに? 僕には全く心当たりがなくてゴミ箱に放り投げようかとしたのだけれど、ただのゴミとして簡単に捨てていいように思えなくて、僕はまたそれをブレザーの胸ポケットに入れてブレザーを掛け直した。 「……もしかして、もう僕これからはイジメられたりはしないのかな」  制服のシャツを脱いで部屋着に着替えながら呟いた言葉はほんのりと僕に安心感をもたらす。  そうか、もう僕はあんな奴らにいやな目に遭わされなくて済むのかもしれない。千弥が取った行動は大胆だったかもしれないけど、僕のためを思ってだったと思うし……そう言い聞かせながら机に飾っている古い写真を見ると、写真の中の小さな千弥が得意げに笑っているようにも見えた。 「……ん、っはぁ」  何度目になるかしれない溜め息とともに、僕はつぶっていた目を開ける。視界に映し出されるのはぼんやりと暗くて見慣れた白い天井。耳を澄ませても、隣の部屋からは何も聞こえないほど静かだ。  いま、何時だろう……朝食同様、どことなくぎこちない遠巻きにされているような雰囲気の食堂で夕食を取り、入浴も済ませていつもどおりに自分の部屋でベッドに横になっている。いつもと同じ、いつものサンハウスの夜だ。  寝返りを何度打っても眠れないことに変わりはないので、僕は観念したように起き上がり、部屋のカーテンを開け、窓も開ける。涼しい秋の夜の空気が頬をゆるりと撫でた。  思えば昨日から怒涛(どとう)のように色々なことが起こっていて、僕を取り巻くものが目まぐるしく変わろうとしている。  僕をイジメていた井口たちに度を越えた仕打ちを受けたこと、その井口たちが停学になったこと――もしかしたらそれには千弥が何か関係しているかもしれないこと――そして、唯菜に吸血行為を見られてしまったかもしれないこと……たった数日で片手では足りないほどの大きな出来事ばかりが起きている。とてもじゃないけれど気持ちがついていかなくてひどく疲れているのが自分でもわかる。  眠りたい気持ちはあるのに、目を閉じてもいくら横になっても眠気が僕を包んでくれない。疲労感はあるのに眠気が訪れない矛盾に、僕は陰鬱(いんうつ)とした気持ちになる。 「――零? まだ起きてるの?」  ぼうっと窓枠に頬杖をついて夜空の月を見つめていると、千弥がドアをノックしてきた。振り返ると顔を覗かせて心配そうにしている。 「なんか、眠りたいのに眠れなくて……」  ごめん、すぐ寝るよ、と僕が慌てて窓を閉めてベッドへ戻ろうとすると、千弥は何かを手にもって部屋に入って来た。  千弥が手に持っていたのは二つのマグカップ。そこからはやわらかな甘いにおいがしている。 「それ、なに?」 「ホットミルク。このところ零は色々大変だったからね、眠れてないんじゃないかなって思って」 「二つも?」 「一つは俺の。一緒に飲もう」 「いいの?」  ちょっと休憩だよ、と千弥はいたずらっぽく笑って僕にブルーのマグカップを手渡す。  僕らはベッドに腰かけ、そっと息を吹きかけて冷ましながらあたたかなそれを飲む。牛乳特有の甘さの中に、僕の鼻先をそっとくすぐる匂いがした。何か芳醇(ほうじゅん)なふわふわするにおい。 「これ、何か入ってる?」 「気付いた? ちょっとだけ赤ワインが入ってるんだ」  内緒だよ、と千弥は言ってゆったりと赤ワイン入りのホットミルクを飲む。あたたかいミルクにほんの少しのブランデーや赤ワインは眠りを誘いやすいんだよ、と千弥は言い、そのミルクのようにやさしく笑う。  僕は口にしたことはほとんどなかったけれど、両親は赤ワインを好んでいた気がするのを思い出した。もしかしたら、吸血鬼には合っているのかもしれない。 「美味しい?」 「うん、あったかくて美味しい」  まるで千弥の心の温かさまで含まれているように甘くて温かいミルクが、怒涛の出来事に見舞われて疲れていた心に沁みていく。やっぱり千弥といると、血とかトマトのポタージュじゃないものでも美味しく感じられる。 「眠れそう?」 「うん、きっと眠れると思う。ありがと、千弥」  マグカップを包み込むように両手で持ちながら少しずつ味わうようにホットミルクを飲みながら言うと、「よかった、やっと零が笑ってくれた」と、千弥が嬉しそうに呟く。 「え、僕、ヘンだった?」 「ヘンって言うか……俺が言ったことを、すごく気にしている感じだったから」 「それは……」  千弥が僕のために動いてくれていたのは有難いのに、その影響の大きさが予想外過ぎて、どう受け止めればいいのかわからなくて戸惑っていたから、もしかしたら様子がおかしく見えたのかもしれない。 「零は何も悪くないんだから、何も気にしなくていいんだよ」  また心配をかけちゃったな……と、うつむきかけて、僕はそうはせずに顔をあげて千弥の方を向いてもう一度笑ってみた。無理やりにでもそうしたら、その内僕の気持ちも上向く気がしたからだ。  その想いが通じたのか、千弥はホッとしたように微笑んで僕の頭をなでてくれた。その手のひらのあたたかさがホットミルクよりも僕の心をやさしく包む。 「ありがと、千弥。僕もう大丈夫だよ」  僕の様子に千弥は安心したようにうなずき、それからしばらく一緒にミルクを飲んでいた。  そうして改めてベッドに入ると、さっきまでの寝付けなさが嘘のように僕はすぅっと眠りに落ちていったのだ。
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