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「あ……俺と香美で、小さい頃、この函館山を登っていた時に、一匹の狐に会いました」
「……ほう」
「その狐は俺たちの方を見るなり、頂上の方に向かって走り出したんです」
それは小学生の頃の話だ。
香美と二人で夢中になって狐を追いかけた。
無邪気に、ただその姿だけを捉えたくて、ひたすらに山を駆け上がっていった。
時間を忘れて、ひたすらに。
「んで、どうなったのさ?」
「……結局、狐は見失ってしまいました。だけど……」
「だけど?」
「……俺たちは気づいたら山の頂上にいて、そこから見える函館山の夜景が、すっごく綺麗で」
函館山の夜景は……百万ドルの夜景とも称されるほどの絶景だ。
普段から見ていた俺たちだったけど、そこから見える景色は格別だった。
夜遅くに帰って、親からこっぴどく叱られたのも相まって、良い思い出になっている。
それを思い出した。
「あの時の狐って、もしかして……」
百陽さんはニヤッと笑って、煙を吐いた。
するとその煙がモクモクと膨張していき、百陽さんを包み込む。
その煙はやがて室内全てを覆い、俺の視界も霞んでいった。
「百陽さん!?」
「……この地を思い出してくれて、俺を思い出してくれてありがとう」
百陽さんの姿は見えなくなり、言葉だけが響く。
「いいかい若者よ。これからも悲しいことは必ず訪れる。失恋だけじゃない、いろんな失敗や別れがある。でもな……」
「……でも?」
「……渡島の飯は、お前の胸にいつでも残ってる。傷ついたお前に、必ず寄り添ってくれるんだ」
百陽さんの姿が完全になくなると、目の前が真っ暗になった。
最後の言葉だけ、耳に残った。
「この函館の味を胸に……生きろ。生きるんだ……」
スーッと、煙に飲み込まれて視界が暗くなり、一瞬で記憶が飛ぶ。
意識を取り戻して、ゆっくり目を開けると、そこは柔らかな風が吹く函館山の中だった。
ここは、函館山のどこら辺に位置しているんだ?
「あ……」
この景色、まさしくそうだ。
あの時も見た、夜景が見えるベストスポット。
……また、あの狐が……いや、百陽さんが連れて来てくれたんだ。
「香美……」
香美と見た景色を、今は独りで見ている。
口の中は、海と山の味がしっかり記憶されていた。
腹を擦りながら、さっき経験したであろう、あの飯処の味を思い出す。
「……生きてたら、良いことあるかもな」
俺の暗い人生を照らしてくれている百万ドルの夜景を見ながら、呟いた。
迷っていた心が晴れたかのようだった。
人生の迷い人しか出会えないあの不思議な飯処には……もう二度と出会えないと思う。
〈完〉
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