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「長年付き合った彼女に浮気されて、死にたくなったってか……」
百陽さんは俺の長話を、嫌がることなく聞いてくれた。
話していたら、また香美との思い出が蘇ってきて……涙腺が緩む。
俺は「惨めですよね」と、言葉に詰まりながら発した。
「お前さんと彼女の、思い出の地で死のうとはな……」
「死ぬ前に、ここに行き着いてしまいましたけどね」
「ははっ、不思議だろう?」
百陽さんはタバコの吸い殻を足元の鉄でできたバケツに捨てた。
そして、再び手を動かす。
さっきまで下準備していたアスパラなどの食材たちを、冷蔵庫から取り出した。
そして、ボウルの中に卵を落として、冷水と共に混ぜ合わせる。
よく混ざったら薄力粉も投入して、また混ぜた。
もしかして……天ぷらでも作るのか?
鍋にサラダ油をたっぷり入れて、熱するのを待ち始めた。
「お前さんの予想通りだ。函館の海の幸と山の幸、両方を食わしてやる」
そう言って、準備していた食材を次々と油の中に入れていった。
一回一回、衣に通してからジュワッと揚げる。
その音が食欲をそそり、揚がっていく様子から目が離せない。
「ほい、揚がったぞ」
アスパラ、椎茸、カボチャ、エビにイカ……豪華な天ぷらをおろしポン酢と塩でいただくことになった。
「……美味しいです」
「んだろ? 函館の名産がぎっしり詰まってるべ」
「はい。どこか懐かしさもあり、そして……あまりの美味しさに驚きもあり……」
百陽さんは俺の感想に「それが、お前さんの心の中にある渡島だ」と返した。
心の中にある渡島……この函館で香美と出会って、そして恋をした。
東京で恋を育んでいたのに、それは虚しく挫折してしまった。
傷ついた心を癒してくれるのは、結局故郷の味だった……死のうとしていたのに、優しい気持ちにさせてくれたなんて。
俺は思わず、百陽さんに聞いてしまった。
「どうして、俺の前にこの飯処は現れたんですか?」
百陽さんは目を大きく見開いて、深く考えるように「あー」と頷いた。
またタバコに火をつける。
「お前さんのこと、どこかで見た気がするんだよな……」
俺は身に覚えがないので、「どこで?」と素直に聞いてしまった。
百陽さんは簡潔に「この山で」とだけ答えた。
この山で……会ったことがある?
その時、パッと思い出した。
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