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5 ごめんね
どこかでセミが鳴いている。
まだ八時前だというのにうだるような暑さの中を歩いていく。
リンネは夏が苦手だった。
もともと体が弱く、すぐに熱を出すリンネは暑さに体がついていけず、出かけてもすぐにへたってしまうことが多かった。
だから、公園に遊びに行こうと誘われても、断ることがほとんどだった。
そのうち愁は、ゲーム機を持ってうちにやってくるようになった。
『家の中でなら遊べるんだろ?』
そう明るく笑う顔は、今でも忘れられない。
暑いなか無理をして公園に行かなくても、ひとりぼっちじゃない。
お出かけしなくても、友達が遊んでくれる。
それまで、友達というものがいなかったリンネにとっては驚きで、とても新鮮な気分だった。
(そういえば、一緒に市民プールに行ったことはなかったな……)
シュウちゃん、泳ぐのは苦手だったみたいなのに、なんで今はプールで働いているんだろう、と思ったところでちょうど着いた。
「暑いなぁ。大丈夫か?」
体育センターの入り口の近くのベンチに、愁は座って待っていた。
凛音がやってきたのを見るとすぐに立ち上がって近寄ってきてくれて、当たり前のようにスポーツドリンクのペットボトルを差し出される。
「あ、ありがとう……」
大きくなった愁は身長が伸びただけではなく筋肉もついた様子で、全体的にガッチリしている。
髪の毛も短く、サイドの部分が刈り上げられていて、スポーツ選手みたいな雰囲気だった。
もさもさと髪が伸び気味だった昔と全然違う。
「あの、この間は、ありがとうございました!」
まずはお礼だ。
ぺこりと頭を下げ、菓子折の入った紙袋を差し出すと、愁は困ったように頭の後ろを掻く。
「いやぁ、そこまで気を遣わせるほどのことじゃないと思うんだけどな」
受け取るのを渋っている様子だったので、さらにぐいと押しつけた。
「とんでもないです! 僕の命の恩人なんですから、もっと豪華なものを用意してもよかったぐらいです! それに、あの、そのまま持って帰ると僕がお母さんに怒られちゃうので、よかったら……もらってください。つまらないものですが……?」
確か、大人は誰かになにかをあげる時、そんなような言い回しをしていた気がする。
たどたどしい物言いに愁は笑い、ようやく紙袋を受け取ってくれた。
「ありがとう。それじゃあもらっとくよ。しっかりしてるなぁ。えっと、いま、小学一年生だっけ?」
「……はい。あ、すみません。今日は母も一緒にお礼にくる予定だったんですが、急用が入っちゃって……」
改めて向かい合うと、愁は愁だけど、やっぱり年上の男の人だ。どうやって話したらいいのかわからなくなって、他人行儀なことしか言えない。
「わざわざ一人で来られるなんてえらいなぁ! あ、そうだ。ついでに聞きたいんだけど、この間、どうして溺れたりしたんだ?」
「え?」
「いや、たまにきみぐらいの子に水泳を教える機会があるから、参考までにな」
「どうして、って……えっと、普通に泳いでる最中に、急に頭が痛くなって、気づいたら沈んでた感じなんですが……」
「なるほどなぁ。息継ぎがあんまりうまくいっていなくて、酸素欠乏症になっていたのかもな」
まじめな顔で頷いている愁に、凛音はますます戸惑う。
「……監視員のバイトだけじゃなく、スイミングスクールの先生までやってるんですか?」
「うーん……というか、小さい頃から通ってるスイミングスクールで、時間外にプールを練習で使わせてもらってるから、その見返りに、たまに小学生コースの講師の手伝いをしているという感じで」
「練習? 水泳選手なんですか?」
「そんなたいした選手ではないが、一応、高校でも大学でも、水泳部に所属している」
愁の返事に、凛音は呆然とする。
「……いつから……いつから、水泳やってるんですか……!?」
リンネの知る愁は泳ぐのが苦手で、学校の水泳の授業でもいつも別メニューをやらされていた。
「……小学校、五年ぐらいの時だったかな」
一瞬、愁の眼差しが気まずそうに揺れたのが見えた。
小学五年。リンネが死んだ年。
リンネが生きていた頃は、愁はスイミングスクールになんて通っていなかった。
つまり、リンネが死んだあとから……?
「……なんで、水泳始めたんですか?」
問いかける声は震えていた。
「……きみみたいな子を助けるためだよ。……なんちゃって」
明るく笑って言い放ったものの、キザすぎるセリフだったと我に返った様子で照れくさそうにごまかす。
それは、リンネがよく知る愁の仕草そのものだった。
「…………っ」
「ちょ……ええ? ごめん、変なこと言ったかな」
パタパタと、自分の顔から何かがこぼれ落ちる。
半ズボンから覗く膝が濡れたことで、こぼれ落ちたのは水滴で、自分が泣いていることに気づいた。
頬に触ったら、手の甲がびしょ濡れになった。
変なのは凛音の方だ。
感極まったとか、そんな感じじゃない。
ただ、気づいたら涙が溢れて止まらなくなっていた。
(これは僕の感情じゃない。『リンネ』の感情だ)
自分であって自分でないもの。
そのもう一人の自分がいま、泣いている。
「森倉くーん、なに小学生泣かしてんの?」
そこに、鍵をあけにやってきたらしい警備員のおじさんが通りかかって、声をかけてきた。
「いや、えっと……すみません、この子、中に入れてあげてもいいですか?」
「弟かなにか?」
「ええと……従兄弟です」
ものすごく適当な嘘だ。
しかし、それで警備員のおじさんは納得してくれたらしく、従業員用通行口から入るのをあっさりと許してくれた。
「暑くて気分悪くなっちゃったかな? とりあえず、飲み物飲みなよ。いま、クーラー入れるから」
警備員のおじさんはそう言って去っていく。
誰もいないロビーのソファに座らされ、凛音は言われた通り、さっきもらったスポーツ飲料を口にした。
少しあまったるい液体が喉を潤していく。
涙はいつの間にか止まっていたが、まだ頭はぼんやりしていた。
「お母さんに連絡した方がいい?」
「……いえ、大丈夫です。少し休んだら帰ります」
「そっか。ごめん、お兄さんこれから仕事だから、またあとで様子見に来る感じでもいいかな?」
「……あの」
「ん?」
「……お兄さんの名前、森倉愁、っていうんですよね?」
名前なんて、確認せずともとっくに知っている。
わざわざ聞いたのは、不審がられては困るから。あえてたどたどしく聞いてみたのである。
「うん、そうだよ。……なぁ、聞き間違いだったら申し訳ないんだけど、この間助けた時、シュウちゃん、って呼んでなかったか? あと、また会えたね、って」
「……っ」
間違いない。そう言った。
でも、自分の正体を隠したまま理由を説明するのは、とても難しい。
言ってしまってもいいんだろうか、ここで。
自分は来栖リンネの生まれ変わりだと。
信じて、くれるだろうか?
「……勘違いとか、気のせい、とかだったらごめん……」
黙り込んだまま顔を上げない凛音に焦れた様子で、愁はさらに言葉を続けてきた。
「親戚に、来栖って名字の子はいるか?」
凛音は思わず、バッと勢いよく顔を上げていた。
「僕だよ! 僕が来栖リンネだよ! 今は黒崎凛音って名前で……ええと、女の子でも金髪でもないけど、シュウちゃんの幼なじみのリンネだよ!」
後先も考えずに言い放った声は、ガランとしたロビーに大きく響き渡った。
二人きりには広すぎる空間に、沈黙が落ちる。
何言ってるんだよ、と笑い飛ばされるだろうか。
ちょっと頭のおかしい子だと思われてドン引きされるだろうか。
ハラハラしながらシャツの裾を握りしめ、凛音は愁のリアクションを待った。
「……だ、だよな……!?」
「ふぇ?」
まったく想定していなかった反応に、凛音の口から間抜けな声がこぼれる。
「リンネ、なんだよな?」
背の高い愁は身をかがめて凛音と目線を合わせ、肩を掴んでくる。
まっすぐな眼差しは真剣そのもの。
冗談を言っているようにも、バカにしているようにも、疑っているようにも見えなかった。
「えっと……幼なじみで、同じ幼稚園に通ってて、小学校も同じで……二年生の時だけ別のクラスになっちゃったけど、それ以外はずっと一緒だった……来栖リンネだよ。……わかるの?」
「……うん。だって、声がそっくりだし」
「声?」
確かに女の子みたいな声だって言われたことはあるけど、そうだろうか?
容姿の違いはともかく、声までは比べようがない。
「それに、表情とか、仕草とか……あとなんかよくわからないけど『リンネ』って感じがした」
ずいぶんと適当で曖昧な判断材料だ。
だけど、いかにも愁らしい気がして、凛音はふにゃりと笑った。
「笑いながら泣くところも」
気づいたらまた涙をこぼしていたらしい。
目蓋が熱い。
「リンネ、生まれ変わったんだな?」
頬に落ちた涙を拭う愁の指先は震えていた。
「うん……そうだよ。シュウちゃんに会うために、また生まれてきたよ。……ね? 生き物は死んだらそこで終わりじゃないっていう私の言葉、嘘じゃなかったでしょ……?」
見つめ合っていられたのはそこまで。
「そっか…………そっか」
噛みしめるように呟いたあとに逞しい腕に抱きしめられて、凛音は身動きできなくなる。
肩越しに、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
じんわりと熱いものがシャツに染み込んでくる。
「ずっと、謝りたかったんだ。ごめん……あの時、助けられなくて」
懇願めいた声で謝罪しながら、愁は肩を震わせている。
再会を、もっと喜んでもらえると思っていた。
だけどいま、愁を満たしているのは、深い後悔の念だ。
ああ、そうだ。私たちはあの日、一緒に海に行って……沖に流されたスイカのビーチボールを取るために一人で泳いでいったシュウちゃんを追いかけて、私は溺れたのだ。
シュウちゃんは、『無理だ。諦めよう』と言っていたのに、私が諦めようとしなかったから、シュウちゃんが取りに行ってくれたのだ。
そして、『ここで待ってろ』というシュウちゃんの言うとおりにしなかったから、私は死んだ。
「ごめん、オレが『泳いでみよう』なんて誘ったせいで……」
違う。最初に泳いでみようと言い出したのは私だった。
浮き輪がなくても大丈夫、と言ったのも私だった。
あの時持っていたのは、スイカのボールだけだった。
スイカのボールが流されたのは、私の脚がつったせい。
スイカのボールは、シュウちゃんが持ってきたものだった。
だからどうしても、取り戻したかった。
でも、スイカのボールよりもシュウちゃんが戻ってこなくなる方が怖い、と気づいて追いかけた。
結局、戻ってこれなくなったのは、私だった。
「……スイカのボール、ちゃんと持って帰れた……?」
「そんなのもう、どうでもいいよ」
ぎゅっと抱きしめられて、あのボールが戻らなかったことを察する。
「ごめん……ごめんね。シュウちゃんのせいじゃないよ」
抱き返すこともできずに、凛音はだらりと下げた手で拳を作る。
大好きな人に、消えない傷を刻んでしまった。そんな大事なことに、ようやく気づかされた。
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