邪の若

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 寝坊して飛び乗った7時台の電車は満員で、いつまで経っても慣れることのない人との密着に若干の酔いを感じている。 ふと視線を感じて、俯いていた顔を上げると、数人先に仕事で知り合った男がいて、微笑んで口の動きだけで朝の挨拶をしてきた。 人に酔って気持ちは悪いし、仕事で何度か顔を合わせているだけで、しばらく会ってもいなかった男に挨拶をするのは面倒臭いと思ったが、袖にするわけにも行かないし、こちらも笑顔で会釈をした。 同じようにもう一度会釈をしたその男は、次の駅で先に降りていく時もわざわざこちらに視線をよこして降りていった。 女性職員がよく噂話をしていただけあって、綺麗な顔をした男だったことは覚えている。特徴のない話し方と、彼が教育していたおしゃべりな新人社員の方が気になって、彼への印象はやたら薄かった。 今もまたすぐに彼のことは頭の隅に追いやっていた。 駅を出るとうろこ雲が広がる空に秋の気配を感じた。 庁舎に入ると、年中ひんやりする廊下を通り、窓際のまだ暑い自分の席に座る。 庁舎はガラス窓が大きく、窓側に座れたことが始めは嬉しかったが、こうも陽射しがきついと、何事も中間が一番いいなと思わされた。 何人かと言葉を交わし、仕事に取りかかると、メールが来ていた。 先日依頼していた仕事の件かと思い開いてみると、先程の男からのメールだった。 電車で会ったのに直接挨拶もできなくて申し訳ないという内容で、正直このメールがきたことに少し不快感を持った。 メールする程のことでもないし、彼の親密さに若干の抵抗があった。 返信は送信忘れのふりをしようと送らなかった。 「与野」 名前を呼ばれて振り返ると、同期の男が部署前で手を振っている。 「何?なんで入ってこない?入ってくれば?」 「いや、ちょっと来てくれ。」 さっきのは、手を振ってたんじゃなくて、手招きだったのかと思うと、腰をあげた。 2人で部署前の角スペースで話し出すと、今彼が担当している新設したコールセンターのパソコン動作の修正依頼だった。 今そのコールセンターは彼の部署が担当しているが、新設するまでは、俺の担当だった。SEの手配などはまだこちらの部署からしかしたことがない為の頼みだった。 「でも、お前んとこにSEの一覧とか連絡先渡したよな?」 「いや、実は今1人来てるんだけどさ、どうも微妙でさ、その子が誰か呼んでくれればいいんだけど、もう午前中から4時間もかかっててさ、何か俺からは言いづらくて。お前からどうなってるか聞いてもらいたいんだけど。」 「今日来てるの誰?」 「佐藤さん。」 あの時のおしゃべりな新人か。 「じゃあ、俺が1回、その子と話すわ。」 「マジで?助かる!もうこっち抜けていいの?」 「こっちは大丈夫。課長に声掛けて行くから、先に行ってて。」 「お疲れ様です。お邪魔します。」 閉ざされた空間に入った。 コールセンターは雑音が入らないように、割と狭い空間で対応してもらっている。 この庁舎特有の大きな窓だけが救いかもしれない。 オペレーターの座席の先に庁舎全体のサーバー室がある。俺にはどう繋がっているのかよく分からない無数のコードの中にその新人はいた。 「佐藤さん。お疲れ様です。」 「え?与野さん?お疲れ様です。すみません。ちょっと時間かかっちゃってます。」 その時、電話がかかってきた。 すみませんと言って電話に出ると、コードを確認しながら指示を受けているようだ。 電話を終わらせると、 「ここ終わりそうなんで、その後センターのパソコン扱ってみて大丈夫だったら終わりです。すみません、時間かかっちゃって。」 「いや、大丈夫だよ。ま、終わらないみたいだから、俺が聞きに来たんだけど。今の電話、青山さん?」 「そうです。」 「今朝、電車で会ったよ。」 「電車ですか?・・・どっか泊まってたのかな?」 「普段、電車じゃないの?」 「はい。この役所とうちの会社の間くらいに住んでるんで、健康にいいからとか言って普段歩いてきてますね。」 「へぇ。今日初めて会ったから、たまたまだったのかな。」 「だと思いますよ。あ、あの、今日仕事の後予定ありますか?」 「いや、別にないよ。」 「じゃあ、飲みに行きませんか?俺、このあたりに引っ越してきたんですけど、飲み屋とか知らなくて。」 かわいい子だなと思った。 屈託のない笑い方と、笑った時のハの字の眉が印象的だ。 よくしゃべるから、飲みやすそうだ。 ふたつ返事で承諾すると、家にバイクを置いてから来るとのことで、駅前で夜7時に待ち合わせをした。 今日は残業になりそうだったのでちょうど良い時間だった。 佐藤さんとの待ち合わせ場所に行く間、彼の笑い方が頭に浮かんだ。 飲みに行くのが楽しみなのはいつ以来だろう。 駅前で俺に手を振る佐藤さんの横に、あの男がいた。 朝と同じように俺に向かって微笑んでいる。 ・・・薄っすらと、両腕に鳥肌が立つのを感じた。
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