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35.俺は選択を間違えた ***SIDEダニエル
ヴァレス聖王国へ嫁ぐことが決まった日、セレーヌはどんな表情をしていたのか。泣いていたかどうかも、思い出せなかった。俺はさぞ醜い顔をしていただろう。
兄上が歪めた唇の形は覚えている。悍ましさすら感じた。その不快感は忘れていないのに、どうしてもセレーヌの反応が思い出せない。
「玉座に取り憑かれた亡霊、か」
娘に切り込まれるまで、隠してきた。胸の奥にしまい込み、封印した思いがどろりと流れ出る。父上が崩御した原因が兄上による毒殺だと、知ってから溝は深まった。
病と戦う父上は、もう長くない。医師もはっきり余命を二年と告げた。それなのに毒を盛ったのは、俺が怖かったのか。一年後に成人する俺を遠ざけるため、セレーヌの未来を犠牲にした。
シャルリーヌの言葉通りだ。女性王族は政略結婚の駒となり得るが、必要のない政略を無理やりこじ付けたのは……その横暴を許したのは我々だった。セレーヌは俺に何も言わなかったから、ずっと気づけなかったのだ。
いや、違う。薄々察していた。アシルとの間に漂う、ひどく冷たい空気を。王妃を演じながらも、妻ではないと拒絶する雰囲気を。仲違いなどではなく、修復不可能な傷に気づいたのに、何も手を打たなかった。
俺の怠慢と惰性――冷たく凍りついた表情の奥で、泣きながら助けを求めていたのか? セレーヌに聞くような野暮はできない。彼女をまた傷つけてしまうだろう。
シャルが対峙を決めたのなら、矢面に立つのは俺だ。今度こそ守ってみせる。ようやく自由になれた妹セレスティーヌも、愛する娘シャルリーヌも、苦しめたりしない。この覚悟を、なぜ二十年前にできなかったのか。
後悔ばかりが胸に満ちた。息苦しくて溺れそうな罪の意識は、俺への罰だった。ルフォルの貴族を率いて、本国を倒す。兄上を退け、新しい王族を選ぼう。我がル・フォール家は王家に相応しくない。
「義兄上殿、我が姫様からの伝言です」
後ろから近づいたユーグが、手にした瓶をテーブルに置いた。執務机に似付かわしくない酒瓶は、強い酒精のラベルが光る。銘柄が見えるよう置いたユーグは、無表情だった。
「――恨みはしません。その価値がありませんから、と」
強烈な言葉は本心だろう。助けてほしい時に手を差し伸べなかった俺も、そんな境遇に追い込んだ本国の兄も、セレーヌにとっては同じ。恨むほど、感情を傾けていない。
ぐっと涙が込み上げ、唇を噛み締める。泣く権利など、俺にはないのだ。泣きたかったのは、せレーヌだ。彼女を連れて逃げたかったのは……。
目の前のユーグの忍耐と忠誠、愛情の深さに声が震えた。
「伝えなくていい。すまなかった、と……俺は、間違えたんだ」
父上を殺した時点で、兄上は狂っていた。退けて王位を奪い、正すべきだった。セレーヌの政略結婚をやめさせ、隣大陸など無視して構わない。シャルだって、無駄に十年を過ごさずに済んだ。
「すべて、俺が悪い」
何も答えず、ユーグは酒瓶を開封した。いきなり口をつけて二口飲み、当然のように目の前に突きつける。肴の一つもない。グラスさえ用意せず、飲めと突きつけた。
俺はいま、どんな顔をしている? 受け取って口をつけ、一口目で咽せた。喉が焼ける感覚に耐えて、もう一口。そこで記憶が途絶えた。
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