一、野良猫

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 男は逢生の言葉を繰り返す。逢生は知れずほっと息を吐いてしまった。その声音から、完全ではないものの、ほんの少しだけ彼が警戒心を解いたのがわかったのだ。その証拠に、男は今度はその相貌をくしゃりと崩す。それどころか、心底面白い、とでも言うようにクツクツと笑い声すら零した。男は笑みを崩さないままで言葉を次ぐ。 「兄は、学校ではどんな感じですか? 佳唯、学校のことは全然話してくれないから」  それからつと、男は目を伏せてしまった。 「佳唯が誰かとつるむような性格じゃないのは知ってるんですけど、だからこそ誤解されがちで。中学までは同じ学校だったから様子を伺っていられたけど、高校はどうなのか、僕にはわからないから」  その姿は、兄を心配している心優しい弟そのものだ。けれど一方で、それは妙な違和感を孕んでもいた。彼があまりにも優等生然としすぎているせいかもしれない。佳唯と双子の兄弟ということは、彼もまた、逢生と同い年ということだ。それなのに、その姿はあまりにも大人びている。佳唯と同じ姿であるということもその違和感に拍車をかけているのかもしれなかった。  と、いつまでも答えない逢生に男は困ったように笑った。けれど逢生はそもそも、彼の問いに対する明確な答えを持っていないのだ。悩んだものの、結局逢生の口から出たのは、答えとも言えない曖昧なものでしかなかった。 「……どう、でしょう」  そしてそんな逢生の回答に、彼もだいたいの事情を察したらしかった。そもそも、先ほど「仲がいいのか」という問いに逢生は否定を返している。彼としても、大した答えが返ってくるとは期待していなかったのかもしれない。男は眉尻を下げると、「ふふっ」と小さく笑った。 「誤魔化すの、下手くそじゃん」  思わずと言ったように、彼は笑いながら零す。それから男は言葉を迷うように視線を伏せ、今度は先ほどまでの快活な喋り方とは対照的に、ゆっくりと、「ごめんなさい」と言葉を次いだ。 「困らせちゃって、ごめんなさい。佳唯は、なんというか……器用なタイプじゃないから。だから中学でも友人関係でトラブルを起こしちゃったり。言い訳にしかならないけど、本当に、ただ不器用なだけで。でも佳唯は、その、なんというか、喧嘩が強いわけでもないし……」  逢生は改めて、なるほど、と思った。男は言葉を選んではっきりそうとは言わなかったけれど、逢生は彼の言いたいことがなんとはなしにわかった気がした。  佳唯と逢生の通う学校は学生たちの見かけの通り、この辺りではいい噂も聞かないし、実際に治安がいいとも言い難い。そんな中で佳唯が異質な存在であることは、校内でも周知の事実である。ただでさえ学校という閉鎖空間なのだ。加えて優等生学校とは正反対に位置するであろうあの学校での佳唯の様子が気になるのは当然のことだと思えた。  それに、と逢生は思う。今は彼の警戒心は緩んでいるけれど、初めに向けられたこちらを伺うような瞳を思い出す。あまり綺麗とは言い難い、整えられていない金髪。耳にはいくつものピアスが光っている。加えて、もともとの面立ちも優しい相貌とはお世辞にも言えない。そんな男が佳唯のことを知っている素振りを見せたら、警戒するのも無理はない、と思えた。  逢生は少し考えてから、口を開いた。 「……俺が見る限り友だちはいなさそうですけど、いじめられてるとか、誰かと喧嘩してるって感じはないです。ただひとりでいる、って感じで」  と、男は驚いたように目を見開いた。それから目を伏せると、ほっとしたような笑みを滲ませる。そのときようやっと、彼の逢生に対する警戒心が完全に解かれたのがわかった。 「そっか」  彼はそう頷く。それからふと、彼の視線は逢生の左胸に着けている名札に据えられた。そして、そこに書かれた文字を読み上げる。 「……ふくどり、さん?」  名前を尋ねられているのだ、と理解して、逢生は頷いた。 「そうです。福鳥逢生」 「ふくどり、あお」  男は逢生の名前をなぞるように繰り返す。それから、どこか嬉しそうに、そしてはにかむようにも見える笑みを浮かべた。違和感を覚えてしまうほどに大人びて見えた初めの印象も、今の彼を見ると、本当のところは違うのかもしれない、と思ってしまう。どちらかというならば、今の彼には幼さすら感じるのだ。そんな男の様子を見て、逢生の心臓はドクリと跳ねた。男の顔から目を逸らせなくなる。佳唯がもし年相応に笑うことがあったならこんな表情をするのだろうか、と思った。 「……なんだか、」  と、男が言葉を続ける。 「なんか、幸せを呼んできてくれそうな名前。幸せの青い鳥、みたいな」  その言葉を聞いて、逢生はしかし、先ほどの高揚感が急速に冷えていくのを感じた。
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