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秋と称される九月。とは言えここ最近は残暑も厳しい。強いて言うならば夏休みが明けたことに夏の終わりを感じるだけで、季節の移り目はまだまだ遠く感じる。けれど、陽が暮れてくれば秋の気配も確かに顔を覗かせつつある。そんな九月の心地よい潮風を肌に感じながら、福鳥逢生は海沿いの夜道を自転車で駆け抜けていた。現在の時刻は午後九時過ぎで、週に三日ほど勤めているコンビニでのアルバイトからの帰宅途中だった。
ここらの夜はとても静かだ。海のある街ではあれど、観光地でも歓楽街でもないただの住宅地だからかもしれない。たまに地元の人間と思しき集団が砂浜にたむろしていることはあるけれど、それもごく希だ。そもそも、夜の海は遊ぶには暗すぎる。まるで黒いクレヨンで幾重にも塗り固めたような、隙間なき黒。夜の海とは、そういう底知れない厚みのある闇なのだ。そんな中で頼りになるのは心許ない月明かりだけである。そんな夜の海でなにかをしようという人間はほとんどいない。闇に隠れなければならない理由がある、後ろめたいなにかがある者を除けば、かもしれないけれど。
そんな、波の打ち寄せる音と風の鳴く声だけが響く夜の海。海が身近にない人間ならともかく、毎日当たり前のようにそれを見ている逢生たち地元の人間からすれば、それはなんら代わり映えのない景色でしかない。敢えて見ることだってほとんどない。いつもと変わらぬ静かな道を、逢生は淡々と走り抜けていた。
そう。いつもと変わらぬ道、そして夜の海のはずだったのだ。
「あれ」
思わず零れてしまったそんな感嘆を掻き消すように、自転車のブレーキがギギイと嫌な音を立てる。ブレーキで停まりきらない車体を、地面についた足で減速させる。スニーカー越しの足裏にザリリと砂を蹴る感触があった。そうやって半ば無理やりに自転車を停めて、逢生は海のほうへと目をやった。
視界の端、海の中に、あるはずのない光を見た気がしたのだ。最初こそ、月明かりが海に反射したのかと思った。今夜は月が大きくて明るい。けれどそれは波の動きに揺らめくこともなく、一定に光っているように見えた。海の中のその光は、あまりにも異質だった。
逢生が目をやった先は、波打ち際は岩場になっている。どうやらそこに、先ほど逢生の視界を掠めた光源が仕掛けられているらしいのだ。岩場から暗い海に向かって、光がつうっと真っすぐに伸びている。
逢生は不思議に思って、跨ったままだった自転車から降りると、それを邪魔にならないように道の端に停めた。それから、岩場と歩道とを隔てている柵に両の手をつく。潮風に攫われて長めの髪がさわさわと揺れ、逢生の頬を擽った。それを肌に感じながら、逢生はその光源を見下ろしてみる。
それは絶妙な大きさの光だった。たとえば、携帯電話のライトよりは強く見える。けれど備えつけの照明器具だとしたら、それはいささか頼りない。そもそも逢生の記憶では、ここには照明などなかったはずである。
もしかしたら、と逢生は思った。この岩場は朝方に釣り人が立っているのを見たことがあるから、特段立ち入りが禁じられているわけではないはずだ。だとすれば、誰かがここに来た際に懐中電灯を忘れていってしまったのかもしれない。そう思い至れば、光は懐中電灯程度の大きさに思えてきた。
「なんだ」
逢生はそのまま、錆でざらついた柵に上体を預けるようにして頬杖をつく。そしてぼんやりと、暗い海と、そこに走る一筋の光を眺めた。
思えば、こんなふうに立ち止まって海を眺めたことはなかったかもしれない。学校へ行くにせよ、アルバイトに行くにせよ、逢生は毎日のようにこの道を通っている。けれど、じっくりと眺めたことはなかった。幼い頃のことは記憶も朧気だけれど、そもそも幼少期はこんなに海に近い街に住んでいなかった。だからきっと、本当にこれが初めてのことだ。
と、そのときだった。真っ暗な闇の中、月明かりと岩場から伸びる光にわずかに照らされた海が不自然に揺れたような気がした。逢生ははっとして目を凝らす。ぼんやりとした白波と白波の間に、なにかが浮かんでいるように見えた。浮きだろうか。あるいは投げ捨てられたゴミが浮いているのか。けれどそれは、意思を持って動いているようにも見える。ゆっくり、ゆっくりと、岩場の明かりに吸い寄せられるように岸に近づいてくるのである。
そしてそれが近づいてくればくるほど、逢生は確信せざるを得なくなった。あまりにも非現実的なことが、今目の前で起こっている、と。逢生は柵に体を押しつけるようにして身を乗り出し、食い入るようにそれを見つめた。
夜の海に浮かんでいるのは、人の頭だった。ただ、それには溺れているような危なげな様子はない。とても落ち着いていて、岩場の明かりを頼りに、のんびりと泳いでいるようにさえ見えた。
こんな真っ暗な海で泳ぐ酔狂な人間などいない。酔狂、というよりも、それは危険なことだ。普通であれば夜の時間帯は選ばない。
(人魚)
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