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そんな言葉が、逢生の頭をよぎった。
空想上の存在だとわかっている。けれどそう思わずにはいられなかった。夜の海、真っ暗闇の中、あまりにも自由に、危なげなく泳ぎ遊ぶその姿は逢生の想像する「人魚」そのものだった。心臓がどくどくと強く、そして速く、胸を叩いている。口の中が妙に乾く。逢生は目の前の光景を食い入るように見つめた。
そんな中、人魚と思しきそれは着々と岸に近づいてきた。こちらに向かって近づいてきているとは言え、それでも距離は遠い。それに加えてこの暗さだ。それなのに、どうしてだろう、逢生にはその姿が妙にはっきりと見て取れた。首が見え、肩が水面から浮かび出た。朧気な明かりの中に、その白い裸体が徐々に露わになっていく。
夢を見ているみたいだ、と逢生は思った。文字通り、逢生には見えるはずのないものが見えていた。髪から零れる雫が頬を、そして首筋を伝い、肩に落ちていく。呼吸にゆったりと上下する薄い胸。濡れた睫毛は重そうに伏せられている。この距離と暗闇の中で、そんなものは見えるわけがないのに。
そしてふと、伏せられていた睫毛がふるりと震える。それからゆったりと持ち上がり、隠されていた瞳が露わになる。月明かりにきらめくその瞳が、逢生を捉えた。
逢生ははっと息を呑んだ。そしてすぐさま柵から距離を取ると、停めてあった自転車を引っ掴んだ。飛び乗るように自転車に跨ると、ペダルに乗せた足に力を込める。勢いに任せて、逢生はその場をあとにした。
ばくばくと心臓が高鳴っている。夜の海の中でこと細かに見えたあの光景は、どこからが現実でどこまでが夢、あるいは妄想だったのだろう。あれのすべてが現実だと信じきるには、あまりにも幻想的すぎた。
ただ、そんな夢の中でどうしても逢生には腑に落ちないことがある。
(でも夢だったとしたら、なんで……)
濡れた睫毛。逢生を捉えた瞳。その相貌。逢生は、それらを知っていた。
(どうしてあいつが)
人魚でも、ましてや幽霊でもない。それは確かな生きている人間で、逢生の知っている人物だったのだ。
――稲越佳唯
逢生は逸る心臓に急き立てられるように、サドルから腰を上げる。全体重をペダルにかけるようにして力一杯漕げば、自転車はギシッという少々不安げな音を立てながらもそれに応えてくれる。ぐん、とスピードを上げて逢生は帰路を急いだ。
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