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1、
その翌日、逢生は寝不足に目をしょぼしょぼとさせながら、重たい体を引き摺るようにして学校に向かった。昨夜の暗い海での不思議な出来事が、逢生を大人しく寝つかせてはくれなかったのだ。そして一夜明けた今もなお、あの光景は逢生の頭の中を駆け巡っている。未だに、あの光景が現実だったとは信じ難い。
けれど、もしも、である。もしもあの光景が逢生の妄想や夢物語ではなかったとしたら。もしも本当に、逢生の目が夜の真っ暗な海で泳ぐ人影の姿をはっきりと捉えたというのならば。
――稲越佳唯
そしてもしも本当に、それが逢生の知っている人物、稲越佳唯その人だったならば。
佳唯は逢生のクラスメイトである。が、話したことはそう多くはない。話したと言っても、それはあくまでも必要に駆られた事務的なものでしかなかった。だから逢生は、佳唯のことをよく知らない。知っていることとすれば、その相貌などの表面的なことだけだ。
佳唯は「芸能人だ」と言われても迷いなく頷いてしまうほどの容姿をしている。背は同年代にしては少し小さめだが、それに見合う体の華奢さは中性的な魅力がある。癖や傷みを知らないさらりとした黒髪と白い肌の対比も、彼のどことない儚さを際立たせていた。そんなすべてが小づくりな佳唯のパーツの中で、唯一大きいのが瞳だった。アーモンドの形をした吊り目で、猫の目を思わせる。そしてその瞳こそ、佳唯の容姿をより引き立てているのだった。
そんな容姿も手伝って、本人がそれを自覚しているのかはわからないが、佳唯は逢生の通う学校の中でも異質であり、有名な存在だった。
容姿だけではなく、そもそも、逢生の通う学校では黒髪の生徒は少数派である。たいていの生徒が髪を思い思いの色に染め、耳はピアスで飾っていて、制服もあってないようなものである。かく言う逢生も金色に近い茶色に髪を染めていた。ただ、高校入学とともに髪色を変えて以来散髪にすら行っていないせいで、肩につくほどまで伸びた茶髪は根本の十センチほどに地毛の黒髪が覗いていた。いわゆるプリン頭である。そして例に違わず、耳にはピアスが光っていた。
そんな学校の中で佳唯の黒髪やまっさらな耳朶、きっちりと着こまれた制服というのはどうにも目立つのである。
それからもうひとつ、彼の異質さを際立たせているものがある。
彼の猫のような吊り目には、いつも鋭い光が灯っていた。そこには警戒心のようなものが透けて見えた。そんな彼を、逢生は人見知りなのだろう、と思っていた。それも極度の、である。そしてそんな不安感が、明らかな敵意となって瞳に滲み出てしまうのだろう、と。
最初こそ話しかけていたクラスメイトもいたけれど、佳唯は大きな瞳で相手を睨むばかりで一向に心を開かない。それどころか、口すらも開かないのだ。そんな様子だからか、逢生の知る限り佳唯に友人と呼べるような存在はいなかった。
と、そんな佳唯の様子を思い起こすと、それはまるで人馴れしていない野良猫のようにも思えてくる。そう思ってしまえば、少し猫背気味な彼の姿勢もそれらしく見えてくるから不思議だ。
とにもかくにも、逢生の知る限り稲越佳唯はそういう男だった。
そんなふうに佳唯のことを考えつつ、逢生は学校へと足を踏み入れる。靴箱で上履きに履き替えつつ、これから向かう教室に思いを馳せた。
おそらく、佳唯はもう教室にいるだろう。逢生の登校は始業時刻ぎりぎりになってしまうことが多い。対して、佳唯は登校が早かった。彼が何時に学校にやって来ているのかは知らないけれど、佳唯はたいてい、逢生が学校に着く頃にはもうすでに席に着いているのだ。そして窓際のうしろから二番目の自席で、ひとりで静かに本を読んでいる。艶やかで真っすぐな黒髪を、窓から吹き込む風に時折さらさらと揺らしながら。
声をかけてみようか、と逢生は思った。昨夜のことを、それとなく聞けたりしないだろうか、と。
けれどそんな思考は、佳唯がいつも浮かべている敵を睨むような表情を思い出すと、あっという間に打ち消されてしまう。事実がどうであれ、彼が応えてくれる可能性は限りなく低い。会話という会話ができるかさえも怪しいくらいだ。
それに、そもそも昨日見かけた人物が佳唯であったと確信することも逢生にはできないのである。仮にあれが佳唯だったとしても、夜の海を泳ぐというのは普通のことではない。なにか後ろめたいことがあるから、わざわざ夜の海を選ぶのだろう。だとすれば佳唯もそのことに触れられたくはないかもしれない。尚のこと応えてはくれないだろう。
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