一、野良猫

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(でも逆に、)  けれど逆に、もしかしたら佳唯から声をかけてくることもあるかもしれない。逢生はそんなことを考えて、思わずこくりと唾を呑み込んだ。そうすると、今度は心臓がどくどくと妙に急いて胸を打ち始める。心なしか体も強張っている気がした。手のひらに浮かんだ汗ごと、逢生はぎゅうっと拳を握り込む。どうしてこんなにも緊張しているのだろう。  たどり着いた教室の前に立ち、逢生は自身でもよくわからない緊張感を無理やりに腹の底に沈めた。扉の小窓から教室の中の様子が見える。すでに幾人かのクラスメイトが集まり談笑していた。そして、彼がいるであろうほうへと視線を向けてみれば、思っていた通り、佳唯はもうすでに自席についていた。窓際のうしろから二番目の席。そこだけぽっかりと空間があいたように、彼の周囲には誰もいない。そして彼もまた、まるで世界に自分しか存在していないとでも思っているかのように、ただただ静かに手元の文庫本に目を落としている。  逢生はぐっと息を詰めた。そしてようやっと教室の扉に手をかける。 「お。おはよう」  と、教室に入ってきた逢生に早々に声をかけてきたのは、当然のごとく佳唯ではなかった。ちらりと伺い見た佳唯は、本から目を上げることすらなかった。逢生は佳唯から視線を引き剥がす。 「おはよう」  そう挨拶を返しながら、逢生は自席に向かった。逢生の席は窓際から三列目、うしろから三番目の席である。佳唯との距離は近からず遠からずといったところだ。逢生は未だ緊張を解ききれないままたどり着いた自席に鞄を置くと、諦めきれずに、またちらりと斜めうしろ、佳唯のほうへと視線を投げた。  その瞬間、である。  キン、と甲高い音を立てて空気が震えた気がした。逢生は知れず、息を詰めてしまった。さりげなく、ちらりとだけ投げたはずだった視線はそこに固定され、あまつさえ、その目を見開いてしまう。  佳唯が、逢生を見ていた。目と目が合ったのだ。  が、それは一瞬の出来事でしかなかった。佳唯は逢生と目が合うと、表情を変えるわけでも、声をかけてくるでもなく、また文庫本へゆるりと視線を戻してしまった。それはほんの些細な、何気ない仕草に見えた。特段意味を持たない仕草。たまたま目が合っただけのこと。一瞬だけ本の世界から浮上した意識が、逢生のほうへと視線を投げてよこしだだけ。そんな仕草にしか見えなかった。 「逢生?」  と、逢生のひとつ前の席に座るクラスメイト、堤信也(つつみ・しんや)が、逢生の様子を不審に思ったのか声をかけてくる。逢生ははっとして、ようやく佳唯から意識を逸らした。信也を見れば、机に頬杖をつきながら立ったままの逢生を見上げてくる。 「……なに?」  そう問いながら、逢生は椅子を引いてどかりと腰を下ろす。そんな逢生に、信也は訝し気に目を細めながら「んー」と唸り、やがて、こてりと首を傾げた。 「なんか、変な顔してた」 「変な顔」 「そ」  そうは言いつつも、信也もそんな逢生の様子に大して興味はないらしい。それ以上は詮索してくることもなく、すぐに手に持っていた携帯電話に目を落とした。逢生は信也に聞こえぬようにほっと息をつくと、机に置いた鞄の中身を机の中に移す。もそもそと体を動かしつつ、先ほどの佳唯の視線を思い返した。  目が合った瞬間、逢生は確かに期待をした。昨日のあの出来事は逢生の妄想などではなくて、そしてあれは確かに佳唯だったのだと思った。けれどすぐに逸らされたそれに、逢生はわからなくなってしまった。少しばかり落胆もした。あれはやっぱり夢で、自分の妄想でしかなかったのだろう、と。あんな暗闇の中で、人の姿などくっきりと見えるほうがおかしかったのだ、と。
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